生神と呼ばれた百姓

 

生神とよばれた百姓- 金光大神とは -

生神とよばれた百姓- 金光大神とは -

神になった百姓


神になった百姓


金光大神とは、江戸時代後期に「備中大谷の生神さま」と称えられた人物である。苦難に悩む人々の願いを天地金乃神へと取り次ぎ、神信心の道を伝えて、おかげを授けた。

元々は地位の低い百姓であられたが、取次により現れる霊験めざましく、加えて、五里先を見通す”心眼”、口を通して神意を伝えられる”裁伝”、素朴な言葉で分かりやすく人のすすむべき道を教える”理解”、自らの命日を神から教えてもらう”お知らせ”など、神信心により現れる神の威徳は人づたいに噂をよび、百姓はもとより商人から武士や殿様までもが「金光さま」と敬い参るようになった。

本項では、金光大神が生神と称される所以となる話を、神徳・理解・修行・逸話・帰幽の五つの項目に分けて紹介する。

目次

神徳

神徳(しんとく)とは、「神の威力」や「神の恵み」の意味であり、それをわが身に受け授かることを「神徳を受ける」とか「神徳を積む」という。

金光大神は、金神さまへの信心をすすめて徳を積み、その神徳は世間でいう霊験・奇跡・千里眼・予知などの神業として現れた。

それを間近で体験した人らは口を揃えて「生神」と称したが、金光大神は「神から知らされねばこの方は何も知らぬ」と決して我が力とせず、人に見せびらかしたり、言いふらさずに、ただひっそりと人を助け導く目的で現わされたこの項では、その逸話の一部を紹介する。

神徳 #1神意を伝えるご裁伝

周防国柳井町に住む桂松平(かつらまつへい)は、行商の明田角太郎から備中の生神さまの話を聞いて、深く感じ入るところがあった。しかし、松平の家は先祖から続いて金比羅さまを信仰しており、 今まで聞いたことのない狐とも狸とも得体が知れない神を信心するわけにはいかない。

悩んだ末、ついに金比羅さまにお伺いをしようと思い立つ。桂松平は、井戸で身をきよめて金毘羅さまの前へとぬかづき、心を静めておもむろに筒みくじをガラガラと振った。

「なむ象頭山金比羅大権現、今より占い問いまつる事を、このみくじに神がかりくださって、告げ知らせてください。明田角太郎の信ずる金光大神が真の神なら、十回が十回とも『丁』の数でお示しください。十回のうち、一回でも『半』が出ましたなら、邪神と信じて今後は心にも留めません。」

と唱えて、さっと小さな振出穴から細い棒を取り出した。カッと両眼を見開くと「丁」である。

さらにもう一度、もう一度と続けた。その結果は十回が十回とも「丁」であった。松平はあっけにとられながらも、まだ信じ難い気持ちもあり、さらに三回試してみたが、いずれも「丁」である。

「これほどご神徳の高い神さまを狐とも狸とも得体の知れないなどと申し上げたご無礼をお許しください。今日からは一心に神信心させていただきます」とひれ伏れふしてお詫び申しあげるのであった。

こうして金光大神の神信心をはじめた松平は、何とかして備中の生神さまをお目にかかりたいと思いを馳せた。松平が住む周防国柳井から備中大谷へは五十里(200キロ)ほどあり、船で参るにしてもたくさんのお金が必要である。ふところに余裕のない松平にとって、参拝はむずかしかった。

ところが明治十六年の春のころ、新屋敷花屋の老婆から「私の代わりに大谷へ病気平癒のお礼参りに行ってください」と旅費として金四十銭を差し出して頼まれる。

松平は「これで念願の大谷の生神さまのもとへ参れる」と合掌してお礼申しあげ、躍るような心で勇んでお参りをした。

大谷の広前へ着くと思いのほか簡素なふつうの家である。中に入ると生神さまと思われるお方が、十人くらいの参拝者に話しておられところで、ちらっとこちらを見られたが、続けてお話をなさっていた。

松平ははじめてのことであり、どうしてよいかわからないままに、人の後ろに小さくなって、じっとひとみをこらしていた。やがて、一とおりのお話を終えられたのか、松平の方へ顔を向けて「周防の国のお方、遠方をよくお参りでしたなあ」と声をかけられた。

「まだ何も申し上げていないのに、自分の事をよく知っておられる。明田角太郎氏の語る見抜き見通しとはこの事か」と恐れ入る。金光さまのもとへと進み、花屋の老婆の病気平癒のお礼を申し上げた。

やがて金光様はしずかにご神前へと進み、拍手を打たれるやいなや、厳かな声で、

「氏子、水が毒、水が毒というが、水を毒と思うな。水は薬という気になれ。水を薬という気になれば、腹の病はさせない」とご裁伝(ごさいでん)が下がり、続いて、

「氏子、水あたりということを言うなよ。水がなくては一日も暮らせまい。大地は何とある。みな、水がもと。麦の一穂も五合の水をもって締め固めるというではないか。水の恩を知れよ」と仰せられた。

松平は訳が分からずに、ただ身をふるわせて平伏していた。お結界の机に帰られた金光さまは松平に向かわれ、先ほどとは違いやわらかな口調で、

「周防の国の氏子、狐であろうか狸であろうかと思った疑いが晴れて、結構ですなあ」

と言われた。松平は千里見通しのご神徳に驚き入り、穴があれば入りたいほどの恥ずかしさで、ただただ頭を下げて冷や汗をかくばかりであった。

こうして参拝を終えたが、金光大神が神前で厳しい口調で仰られたご裁伝(ごさいでん)の意味が分からなかった。考えてみても、お婆さんの病気平癒のお礼と水の話はなんら関係がないように思える。

「水を毒をと思うな。水は薬という気になれ…」「水の恩を知れよ…」

ご裁伝を思い出しながら繰り返しつぶやくうちに、はっと気づく。

これはお婆さんではなく自分に向けてのご裁伝である。自分は幼少より水が腹に合うかをいつも気にかけ、水を敵のように思っていた。行商へ出れば他の土地の水を飲むので、コレラの感染を恐れて、口うるさくしていた。

これまで水の恩など思いもしなかった松平は、自らの心得違い、神へのご無礼に気づき、それからは水を神の恵みとして大切にいただくのであった。


ご裁伝(ごさいでん)とは、神より金光大神の口を通して発せられる、参拝者に対しての神託である。

金光大神が神前で祈念をしておられるときに、そのままの姿勢で顔を横に向けて、はじめに「何の年の氏子」とか「どこどこの氏子」と呼びかけられ、つづいてはっきりと神の意志を告げられた。

ご裁伝は、その人その人に合った教えで、頂いた人はしぜん頭が下がったという。ときに短く簡潔であるため初めて聞く人には理解できないこともあった。そのため金光大神は祈念を終えて取次の座に戻ったあとに「今のが分かりましたか」とたずねて、あらためて分かりやすいように話をきかせた。

はじめの頃は、ご裁伝の内容があまりにも厳しく、気の弱い人がお参りするのを恐れるほどであったので、金光大神は「もう少し、やわらかでおだやかにお願いします」と神へ頼まれたという。

ご裁伝は、金光大神のほかに高橋富枝、斎藤重右衛門、秋山米造など一部の取次者にもあらわれたが、明治十五年に神さまからお知らせで、「ご裁伝はこの方(金光大神)一代かぎりであるぞ」と定められ、金光大神のご帰幽のあとはしだいになくなった。

神徳 #2起りくる出来事を予見する見通し

明治十五年旧正月、難波の広前で取次をおこなっていた近藤藤守が大谷へ参拝をしたときのこと。

金光大神からいろいろと教えを受ける中に、「近藤さん、悪いことをせずとな、牢に入っても恥にならぬのお」と告げれられる。藤守は「左様でございます」と答えるも、何のことやら分からず奇妙なことを仰られると思った。

その年五月のなか頃、朝日新聞の「難波村に近藤とかいう神を看板にして、国事犯の陰謀を企てている…」という記事が目にとまる。藤守は、まさか自分のこととは思いもせず、「難波村のことだから同姓の者で、国事犯を企てている者がいるのだろう」くらいに考えていた。

同月十四日、藤守のもとへ南警察署から出頭せよとの召喚状が届く。その当時、国会開設の議論が沸騰している時で、国事犯事件でさわがしい頃であり、官憲は過敏になっていた。毎日毎日、多くの参拝者が訪れる藤守の家の有様を見て、神をかかげて人を集め国事犯の陰謀を企てているとにらまれたのであろう。

しかし、藤守にしてみればまったく身に覚えのない濡れ衣。家族や参り来る人も、ただあっけに取られるばかりである。

警察側は、参る者に取り調べをおこない、神道分局へ問いあわせてみるも、国事犯らしき形跡と実証が上がらず、神道分局からは実直に神の教えを説く者と証明された。

嫌疑は晴れて帰宅を許されたが、翌日になると、ふたたび南署から「近藤与三郎(藤守)その職にあらずして神を祀り、庶衆を参集せしむる廉により十日間拘留申しつく」という令状が交付された。

藤守は連行され、神前のまわりのものをすべて没収されてしまう。こうして藤守は、牢に入り拘留の身となった。思い出すのは、その年の旧正月に金光大神に教えられた言葉である。

「近藤さん、悪いことをせずとな、牢に入っても恥にならぬのお」

そのときは何のことやらさっぱりであったが、拘留の身になって、なるほどこの出来事を教えて下されたのだと気づく。

「思えば、これまで自分が知らず知らずのうちに神さまに対して犯した罪は、何ほどあるか分からぬ。そのご無礼を、この度お上の手をもってお取り払いくださるのである。」

藤守はこの拘留がこれまでの神へのご無礼のお取り払いと思い、十日間の刑期をひたすらお詫びとお礼を申して過ごし、五月二十四日に無事放免される。

翌月六月七日、大谷の広前へ参り、これまでの出来事を話してからお礼を申し上げた。

金光大神は、「それをおかげと思うかのお」と仰せられたので、藤守は「有難く存じております、おかげと思うております」と言いながら、獄舎生活の中、そのときの心境をしるした短歌を差し出した。

「幼なより 積みにしとがも五月雨に あらひて後の心すずしき」

金光大神はこれを見て打ち笑い、「では、これを見なされ」といって、ご祈念帳の正月二日に記したところを見せられた。そこには、

「一、大阪難波村 近藤与三郎 当年行く五月十五日より御上の手に入れる旧四月二十日(新暦六月七日)御礼参りす。名を藤守と授く」

と明確に記されてあった。これを見た藤守はあまりのおどろきに言葉が出なかった。さらに続いて金光大神に御裁伝があり、

「正月はめでたいものぢゃのう、正月三が日という日は大切な日で世の諺にも正五九ということがあろうが、この三期をちぢめると正月三が日となる。正月一日に神に伺えば正、二、三、四、この四カ月の事を教える。二日が五、六、七、八。三日は九、十、十一、十二と教える。なあ近藤さん、そこで正月三が日をもって一年中のことを伺うておきさえすれば皆神が教えてやる。その徳を受けられよ」

との言葉が下がった。藤守はありがたさで胸が塞がり、ひたすら平伏するばかりであった。

神徳 #3心を見透かす見抜き

墨や筆など小間物の行商をして全国を渡り歩いていた堤清四郎(つつみきよしろう)は、明治十五年五月に京都の中野米次郎(なかのよねじろう)に、大谷の生神の話を聞いてさっそく金光大神の広前へ参拝する。

米次郎はこのときに、「生神とも言われる人に、何か書いてもろうておけば家宝になるぞ」と思いつき、書いてもらうための潤筆料として二円五十銭と紙を託す。

こうして堤清志郎は金光大神の広前を目指して出発したが、その道中、大阪の川口で船に乗ろうとしたときに、あやまって海に落ちてしまった。

大谷の広前へ着くと金光大神から、「堤さん、あなたは方々歩かれるから、面白いことも辛いこともありましたろう」とたずねられる。

小間物の行商で全国を渡り歩く清四郎は「へい、わたくしは江戸から長崎まで歩いて、知らぬところとてはありませぬ」とすこぶる得意気に返事をする。金光大神は「それでは、根の国・底の国もご存知でしょうなあ」という。

根の国・底の国とは死んだ人が行くと考えられた場所であり、日本中まわってもそんな国は存在しない。あっけにとられた清四郎は「そんな国はござりません」と答える、金光大神は、

「こちらに来る途中、大阪の川口で行ったのが根の国・底の国でありましょう」と言う。知りようもない出来事を知っておられたので、清四郎はおどろき恐れ入った。

そして、中野米次郎から授かった紙と書いてもらう代金を差し出して、お願いもうしたところ「書くことは親が教えなかったから、よう書きませぬわい」と言って、ついには筆を取ることはなかった。

神名書付(日天四 月天四 丑寅未申 鬼門金乃神 大将軍不残金神)
「神名書付(しんめいかきつけ)全文」

金光大神は、一心に神信心する人には一銭のお金も取らずに、神名が書かれた書付や信心の目当てとなる天地書付を下げた。

中野米次郎に、書附をお下げになられなかったのは「生神とも言われる人に、何か書いてもろうておけば家宝になる」という動機が、神の心にかなわなかった為ではないかと思われる。

以下はこの逸話と対極する話である。

大阪の広前で金光大神の道を伝える白神新一郎が金光大神のもとへ参詣をしたとき、「その方の広前の者であろう。北野新地下原に住む入江カネ女と申す者が、この方に毎日参拝いたしておる。これを持ち帰って渡してやれ」と言われ書付を渡された。

大阪から大谷(岡山)へは今でこそ新幹線で二時間程度でつくが、当時は船や人力車や徒歩で数日かけて参るくらいの距離であり、とうぜん毎日のお参りは不可能である。

新一郎は帰って、参拝者が記された御祈念帳を調べる。するとたしかに「入江カネ」の名があった。

新一郎はその者を呼び寄せて金光大神が申した通りをつたえると、カネは「その日稼ぎの忙しさにおわれながら、暮らしておる身でございます。どうして日参などかないましょう。一生に一度なりとも金光大神のおかげを拝ませていただきたいと、明け暮れお願いしておるばかりでございます」と答えるのであった。

白神新一郎は「そうであろう。その明け暮れのお願いこそ、金光大神のもとへのまことの日参である」と励まして金光大神よりことづけられた書付を手渡した。

このように入江カネは頼みすらしてないのに書付を下げられ、一方で中野米次郎は潤筆料を添えて頼んでも下げられなかった。このことから、金光大神は心に「真」の有無で書付を下げたと分かる。

神徳 #4遠くは離れたところを見る心眼

備中小田郡上稲木に住む山本志摩(やまもとしま)は、四男の伊平を出産したとき血の道(婦人病)にかかり、足が立たないようになる。

夫の徳次郎は妻の病気平癒のために、方位の吉凶を見てもらったり、色々な所をめぐり山伏・修験者に加持祈祷をしてもらうもその甲斐なく、一向に治らずに困っていた。

そのときある人に、「大谷の金光様にお願いすれば、すぐにおかげを頂ける」と聞いて、明治元年(1868)、生神をたずねて大谷へお参りする。

五里(20キロ)の道のりを歩き、広前へ着くとさっそく妻の病の平癒を願いとどけた。すると金光大神は、知らぬはずの徳次郎の家の模様をことこまかに言い当てるのであった。

「その方の家にはご無礼しておる。家は南向き、戌亥に蔵、西に長屋、東に崖があり、家の上に折れまわりになっておる。この折れまわり角に大便所あり、この陰で産後の洗い物をしておる。このたびの出産についても、方位を見てもらい、三度も胎盤を埋めかえた。暦を見て明き方(吉方位)という金神の留守をねろうておるが、今より金神に頼むと心を改め神信心すれば、病人全快いたす」

当時、出産のあとに出る胎盤や産湯に使った水は”穢れ(けがれ)”とされ、これを鬼門(北東)・裏鬼門(南東)・金神が所在する方位に埋めると祟りにあい、子どもの発育や産後の回復に悪い影響がでるという俗信があった。

金光大神は、徳次郎が方位を調べて”金神がいない方位を狙い、胎盤を埋めかえたこと”が、神へのご無礼になっていると指摘したのである。

徳次郎は、金光大神の仰せの通り、心をあらためて金神さまへと頼む心になり、おかげを受けて妻の血の道は平癒した。

それから金神さまを拝んで神信心をするようになったが、そのあと「大谷の金光大神は金神狸をつかう」という噂が流れ、これに心を迷わせてしばらく参拝を中止していた。

明治九年(1876)旧正月十五日、志摩の長男になる山本定次郎があらためて大谷へ参拝をしたときに、

「金光さま、以前父親がここへ参り、母の病の平癒をお願いしたときに、私方の建物・道・方角のこと少しも違わぬことをお伝えくだされたと幼少ながら聞いております。五里へだててよく知れますことであります。いかがのお願いでも、遠方のことがわかりますか」とたずねた。金光大神は、

「天地金乃神さまは、天地一般に見てお守り下されてあるから、あわせ鏡のあいだに住んでおるようなものじゃ。目をつむいで、お願いしておると、願う氏子の宅地・建物が見えるように思う。そのままを伝えれば少しもちがわぬと人がいう。肉眼をおいて、心眼を開きて見なさい。お前も人間、私も人間。同じ天地の神から同じ御霊をいただきておる万物の霊長であるから、神信心してご神徳を受けよ。」と仰せになるのであった。

神徳 #5その他の神徳の逸話

明治十二年旧五月、備前国上道群沖新田に住む青井サキが、田植えあがり(田植えじまいの休み)に九人連れで大谷の広前へお参りしたときのこと。

雨が何日ともなしに降り続きており、道中の水江、片島の橋は、水につかっていた。二つ目の片島の橋を渡る時、人が大勢見物して、「あれは命知らずじゃわい」「橋が壊れる、危ない、危ない」と騒ぐ。九人とも無事に渡ったあと、すぐに橋がばったり落ちたので見物人は一斉に声をあげた。

その九人の中に一人、たいへん立派な衣服を着ておる人がいて、雨にぬらしたのをたいへん悔やんでいた。そうして、大谷の広前へ着き、金光大神へあいさつをすると、

「この大雨にお礼のできる氏子は、一心が届くわいの。また、神にお礼をするのに着物をいたわるようなことではいかぬわいのう。神にお礼をさしていただくたんびに、こうばつほ(新調の着物)を着て参るようなおかげをいただかねばならぬ」

と申された。「神様ぢゃ。お願いせんのにあのとおりにおっしゃってくださる。道中にて連れが言うたことを、まるっきり知ってござる。ありがたや」と恐れ入った。

サキは、この洪水のなか子供と年寄りを家において来ているので、心配をしていた。すると、金光大神は、

「丑の年(サキ)、十里が末へ来てのう、うちのことを心配しても、何にもならぬわいの。神さまにおくり合わせを願いておけば、心配はないわいのう」と申され、サキはまことに恐れ入り、安心してお願いした。


摂津国住吉に住む和田安兵衛が明治十二年頃に初めて参拝をしたときのこと。お広前に着き、金光大神に近づくや否や、くるっと安兵衛の方を向いて「遠方から参ったのう。住吉というと、よほどあるのう」と仰せになり驚いた。


備後国安那郡上御領村に住む、森政禎治郎(もりまさていじろう)は明治十二年の夏に、九死一生の重病となった。そこで妻のサダノが佐藤範雄に頼み、範雄のおもてがえにより全快のおかげを受ける。

その年の十月十五日、サダノが大谷の広前へ参ったとき。金光大神に、「氏子のうちには、亭主の病気が神様のおかげで助かったと思っていない者がある。寿命があったから助かったと思っている者がある」と指摘される。

じつは、十月十二日の晩、妙見様の祭りでそば切りを打ちながら、母が谷下のおばに、「禎治郎が治ったのはおかげであったと言うが、寿命があったから治ったのです」と言い、おばも「そうに違いない」と話し合っていた。

金光大神はそれをまるで聞いておられたかのようにお諭しになり、さらに、「氏子の家には、棺おけに足を突っこんでから出たものでないと、おかげとは思わない者がいるが、今度のは、いよいよ寿命限りであったのが、氏子の一心で助かったのであるぞ」と仰せになった。


岡山県浅口郡六条院西村にすむ竹本嘉十郎(たけもとかじゅうろう)は、息子の瀧太郎がコレラにかかり、高橋富枝に神信心の手ほどきを受けて神に願っていた。

六月十三日に高橋富枝に「今晩は竹本嘉十郎の元へ行って息子の看病してやれ、皆の者は疲れておるから代わって寝かしてやれ」とお知らせがある。

お知らせ通り富枝は竹本の家へ看病をしに行き、一時は快方に向かうも十四日には再び病状が悪くなった。富枝が神様にお伺いをすると、「家の者は神信心をするが、親類の者どもが『この家の親方は、金神狸に騙されて大切な子供を見殺しにする』と陰口を言っておるから、神も手を引いて見ておる」とご裁伝があった。

翌日の十五日、竹本嘉十郎は大谷の広前へ参り、息子の病気平癒のお届をして「お神酒を頂きたい」と願った。すると金光大神はご裁伝で、

「辰の年(竹本嘉十郎)、酒は酒屋のほぞにある。此方の酒が効くのではない。その方の所の出社(高橋富枝)を何と思っているのか。その方は、若い婦人と思って軽しめて、子守りのように思っているであろう。その婦人は此方の出社であり、金神の眷族である。神と尊め。おかげを受けるのも受けないのも、その方の心にある」と仰せられた。

嘉十郎は恐れ入って帰り、高橋富枝の所へ参り無礼を詫び、「御神酒をいただかせてください」と願った。そうして、病人は間もなく全快し、二十二日にお礼参りをするのであった。


ある時、角南佐野吉は青井サキをはじめ数人連れで、金光大神のお広前へ参った。その道中、玉島辺りからサキが足を痛め、みなに助けられて、ようやく広前にたどり着いた。だれも何も言わないのに、金光様は、

「親の心を子が知らない。親神様も涙を流しておられる。親の心を知っておかげを受けよ。すぐ、おかげが受けられる。明日は足もよくなり、帰られるようになる」と仰せになった。

それを聞いて、青井サキは泣きながら、「恐れ入りました。実は、今朝立ちます時、母が後掛草履の用意をしてくれまして座敷にならべましたので、縁起でもない*1と怒って蹴散らし、土間から履いて参ったということがありました」とお詫び申しあげた。翌日は、み教えのとおり元気になって帰ることができた。

*1 新しい履物を座敷から履いて外へ出るのは、葬式での出棺の作法であり、日常これを行うことを忌み嫌う風習があった。


備中国賀陽群上足守村に住む津川治雄が、大谷の広前へ参詣したとき。

金光大神に、「帰りにシャッポ(帽子)に気をつけよ」と仰せられたことがあったが、水江まで帰り、橋を渡る時、川風がさっと吹いて来て帽子を川に落とした。

くるりくるりと回って、水辺に落ちてとまった。その次に参拝した時、これを申しあげたら、「そうか。それくらいのおかげは珍しいことではないが、人間業ではないなあ」と仰せられた。

理解

理解(りかい)とは、一般に物事が分かることを指すが、この道では教えを話して聞かせることを指し、主に神前の右側に位置する取次の座で行われる。

当時、庄屋が村人に対して説得をすることを理解と言った。例えば、村人のあいだで、金銭の問題・田地の境で揉めたときなど、庄屋があいだに入って話し合い、訓戒をあたえて争いを解決する。これを「理解申し聞かせ」「理解申し入れ」といった。

これと同じように、金光大神は神と人との間に立ち、人の願いを神へと取り次ぎ、神の教えや指示を人に理解申し聞かせた。そうして神と人の両方が助かり、その結果として目覚ましいおかげが現れるのであった。

金光大神の理解は、佐藤範雄らが全国の人から聴取し、その数はじつに1182項に及ぶ。それらはまことに百人百様で、その人その人に対する教えであるが、一貫して共通する理解もある。本項では、その一部を解説しながら紹介する。

理解 #1日柄と方位の理解

もし、あなたが結婚式の日取りを決めるのに、仕事に差支えなく、友人や親類も集まりやすい日があったとする。しかし、その日が”仏滅”や”不成就日”であった場合どうするだろうか。

明治以前の日本では、この”日柄を見る”という信仰が生活に深く根付いていた。カレンダーと日の吉凶が記された暦(こよみ)が全国各地で配布され、もっとも普及した伊勢暦は毎年200万部(1716 年~1735年の間)も発行されたという。享保の人口が約3128万人とすると、現代の人口比率で例えれば800万部突破の超ベストセラーだ。

びっしりと日柄が記載されている伊勢度会暦

当時の人はこれらの暦を見て、婚礼、旅行、引っ越し、開店開業、仕事始め、建築増築、種まき、井戸掘り、木を切る、土動、神参り、葬送、葬儀など、ありとあらゆる行事の日取りを決めた。

吉日を選んで運命がよくなれば良いのだが、実際のところは弊害が多く、福沢諭吉の『改暦弁』によれば、葬送を伸ばし遺体が腐敗したり、旅行のとき川水が増して足止めをくらうなどの問題を引き起こしたという。なにより日柄の良し悪しに生活を縛られること自体が不自由である。

この日柄の吉凶について、金光大神は以下のように理解申し聞かせた。

人間は勝手なものである、生まれる時には日柄の良し悪しも言わず出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと勝手なことを言って、死ぬ時には日柄も何も言わないで駆けっていく

人間が誕生する日と亡くなる日は、自分にとってもっとも重要な日ともいえるが、これを自らの意志で選択するのはむずかしい。妊婦が安産祈願を行うのに、戌の日・大安・天赦日が重なる超吉日を選べても、子どもが生まれる日は選べないのである。出産の日が、仏滅・不成就日・三隣亡が重なる超凶日になるかもしれない。

金光大神は、「人が生まれる日も死ぬ日も、その途中も、すべて日の神のお照らしある日である。日柄の吉凶に迷わされず、自分の都合のよい日に、『今月の今日に、建築にとりかからせてもらいます』と神へと頼んで行え」と教えた。

また、日本では日柄だけでなく、方位の吉凶を見る風習が、広く定着していた。

現代でも引っ越しや旅行を行うのに、九星気学の暗剣殺・五黄殺・歳破などを恐れる人がいるが、当時はさらに強力・より細かく、日柄と同様、方位を見て事を行うのが常識であった。

さきほど紹介した伊勢度会暦の冒頭には、方位の吉凶が記されている。

主に方位神の所在する方位で吉凶を占うのであるが、この中で最も恐れられたのが”金神が所在する方位”と”鬼門(北東)”である。画像の暦の年は、子・丑・寅・卯・午・未の方角に金神が所在しており、この方角は建築、農作業、旅行など万事が凶とされた。

もしこの方位を犯せば、家族を七人、足りなければ家畜や隣家も含めて七墓築かされる「金神七殺」の祟りにあうと伝えられ、金神の方位を避けたり、留守にする日を狙ったり、金神封じなどの対策をした。

これについて、金光大神は以下のように理解申し聞かせる。

金神は悪神邪神であると恐れをなして、「逃げとけ、よけとけ、回っとけ」と言うが、それはいけない。お断りとお願いとをさしていただけ。 嫌うてよける精神と、金神さまのご地内に建てさしてもらうという精神と、どちらがよいか比べてみて、よいと思えばよい方をせよ。

金光大神は、「金神は地の神であるから恐れて避けずに、土地を使うときは『使わせてもらいます』と丁寧に願い届ければ、福の神として守ってくれる。方位の吉凶を申して、留守を狙うのが神への無礼となり、後の難儀の元になる」と教えた。

方位方角の吉凶を気にする人にとっては、自由で心強い教えであろう。以下は天保九年(1838)に備中国下道郡二万村に生まれた、三村佐野による伝えである。

ある時、笠岡の人が倉庫を建てようとしたが、人々はみな口を揃えて「鬼門に当たるからやめよ」と言った。その人は周りの声を気にもとめず、神も何もあるものかと三間に八間の倉庫を建てたが、落成したはずの倉庫は夜の間にたおれてしまう。

その人は根比べをすると言って、また同じ所に倉庫を建て、瓦もふき、壁も塗りおわった。ところが倉庫はふたたび倒れ、瓦も柱も使えなくなる。そこで、その人は金光大神のことを思い出し、ひそかに大谷の広前にお参りした。これまで出来事を話してお願いすると、金光様は、

「この大地もその他の物も、みな神様の御物であるのに、わが物である、わが金ですると思い、神様にお願い申さずにするから、叱られるのは無理もない。神様にお願い申して、神様のご地内をお借りし、今までのご無礼をおわびして建てれば、さしつかえない」

と教えられた。その人は、「この度は三階建てを建築し、一番上は神様のお間とさせていただきます」と約束して帰り、三度目の普請でおかげをいただいた。

このように日柄や方位や家相に悩む人々が、金光大神をたずねて参り「日柄方位は見るにおよばぬ」と理解を授かり、おかげを受けるのであった。

理解 #2懐妊と出産の理解

鳥取藩の出産調査資料「口会見郡村々生育取調帳」によると、当時、妊娠をして出産後までに、40%の赤ちゃんが亡くなった。これは、文化二年(1862)四月から一年間の17カ村の妊婦を調査した記録である。

妊婦全体で186件、そのうち流産(注1)が27件、死産が16件、乳児の死亡が22件、妊娠中の病死が1件で、無事に育ったのは男子51名、女子48名となっています。全186件から妊娠中の21件を引くと、無事に育った事例は全体の60%に過ぎません。

鳥取県|第86回県史だより

2000年の周産期死亡率5.8%と比べると約7倍とずいぶん死亡率が高い。その要因の一つに、お産に関する風習が関係していると考えられる。

日本には古くから毒断ち・初乳を捨てる・産後横になって寝てはいけない等、妊婦や出産に関する誤った風習が多く存在した。安産の象徴である「犬」にちなんで、妊娠五カ月目の戌の日に腹に巻く腹帯(岩田帯)もその一つだ。

現代でも、胎児を保護する目的で腹帯が用いられることがあるが、当時は、胎児が大きく育つと難産になると考えられ、腹の中の子が大きくならないように帯をきつく締めた。しかし、それがかえって難産を招く。

腹帯によるデメリットははっきりしており、腹帯によって、腹腔内の血管の圧迫が起こり、子宮内の血行が悪くなります。これによって血圧が上昇します。これらは胎児に悪影響及ぼします。

ちくご・ひらまつ産婦人科医院|腹帯

現代ではだんだんと腹帯による弊害が知られるようになってきたが、当時の人はそれを知る由もない。安産のために腹帯をするのが常識の時代である。

この腹帯について、金光大神は以下のように理解申し聞かせた。

子供ができる時に、月が延びる(妊娠)と、金乃大神様にお願いし、体の丈夫な子をお授けくださるよう、また親の体の丈夫を願え。また五月目にはいずれも腹帯をするけれど、あの腹帯のために中の子が難儀しておる。親も腹帯のために窮屈をし、血の巡りを悪くし、それゆえ親は体が弱りて難儀いたし。もう、これからは腹帯はせずと、日々、親子、体の丈夫を頼め

また、当時は毒断ちといって、妊娠をすると特定の食べ物が毒になると考えられ、妊産婦は食に関する厳しい制限を課せられた。

例えば、なまこやタコを食べると骨がない子が産まれる。カニを食べると毛深い子。卵を食べると髪がない子。鶏を食べると鳥肌の子。秋茄子を食べると流産する等、様々な理由を付けられ、サバやブリなどの青魚、エビ、鶏肉、うさぎ、にら、ねぎ、唐辛子、蕎麦、秋茄子、こんにゃく、スイカ、梨、柿、砂糖、酢などの調味料、油物その他いろいろな食べ物が禁じられた。

食べてよいものは、米の粉のだんご汁、里芋の茎のみそ汁、コイのみそ汁など限られたものだったという。

その他にも、産後すぐに出る初乳を捨てて、その代わりに薬草を煎じた五香を飲ませたり、産後は横になって寝てはいけないなど、様々な習わしがあった。

これらの誤った風習について、金光大神は以下のように理解申し聞かせた。

五香の代わりに、お神酒を飲ませよ。乳へお神酒いただいて、乳をもみ柔らげて、すぐに初乳を飲ませよ。また、産人はすぐに平生のとおりに枕を下げて寝よ。これまでは、七日の間夜昼座りて、血の道(婦人病)をすまいと思うて苦労しておる。けれど、そのために血の道をしておる。昔年寄りの教えはやめて、神にもたれてゆけ。毒養生は、するにおよばず。体の丈夫になるようにと言うて願いあげて、何でもいただけよ。

金光大神の教えは当時において、斬新かつ非常識であったがその教えのとおりにした者は、隣人も気が付かないほどの軽いお産になったという。このことから金光大神の道は、隣知らずの安産の道とも伝えられた。

以下はその一例である。

高橋富枝「4人の逆子の安産」
桂ミツ「隣人も気づかぬほどの安産」
杉田政次郎「隣人も気づかぬほどの軽いお産」

現代でも、陣痛が始まってから出産までにかかる時間は、初産の場合12時間、経産婦でも7時間ほどと言われるが、それに比べると上記のお産の軽さは異常である。

しかし、もちろん腹帯をしないからといって安産になるわけではない。神に一心に願い力添えを受けての安産である。ちなみに筆者の妻も初産のときは、陣痛開始から3時間、二人目は1時間半で生まれ、助産婦さんにお産の見本とお褒めの言葉をいただいた。

理解 #3女性と穢れの理解

江戸時代は、女性にとって不遇の時代であった。女性は生まれた時点で男性よりも立場が低く、「幼いときには父兄に従い・嫁に入れば夫に従い・夫が亡くなれば子に従う」の三従(さんじゅう)が女性の美徳とされた。

また、女の腹は子どもを宿すための一時の借り物で、生まれる子どもの身分・人間性・才能は、すべて父親によって決まるという考え方があったという。そのため、当時の家系図には名前を記されず「女」とだけ記されることもあった。

江戸時代に作成された系図[1]を見ると、男性は嫡子以外も全て名前が記されているのに対し、女性は名前がまったく記されず、ただ「女」として表記されているものが多くみられます。このことは、江戸時代が封建的家族制度であったことに起因しています。

亀山歴史博物館|亀山の歴史の中の女性達

このような女性観について、金光大神は以下のように理解申し聞かせた。

古人は女の腹は借り物であるというが、借り物ではない。万代の宝である

金光大神は、妊娠中の母親の心がお腹の子供をつくるため、妊婦はいっそう慎んで真心をつくり、夫や姑も妊婦を泣かせたり悪い事を言わずに大切にせよと教えた。

また、日本では古くから「穢れ(けがれ)」という観念があり、これにも女性は苦しめられた。

穢れとは、清浄ではない不浄の状態である。主に血や死に関する、黒不浄(死)・白不浄(出産)・赤不浄(月経)が基本となっており、それらの不浄によって穢れている人は、一定期間、神に近づいてはならないとされた。

また、穢れは人から人へと伝染すると考えられ、産婦や月経中の女性はかまどや井戸を使う炊事はできず、地方によっては家族と隔離された部屋で生活をした。出産の後に出る胎盤や、産湯に使った水、経血のついた衣類も穢れたものとされ、日の当たらない場所を選んだり、鬼門(北東)や金神が所在する方角をさけて埋められた。

穢れの観念はもともと他国から伝来した思想であるが、日本の信仰や生活と結びつき、女性をはじめ、死や血に関する職業などの偏見を生みだした。

この穢れについて、金光大神は以下のように理解申して聞かせた。

月経や産の汚れがあっても、親が死んだり子が死んだりしても、忌まなくてよい。日天四様と月天四様とは天の神様で、これほど高い神様はない。金乃神様は地の神様で、これほど低い神様はない。親が死んでも子が死んでも、月経や産をしたりしても、天地金乃神様のお屋敷へしかばねは納め、汚れ物も納めるのである。

金光大神は、「月経や出産は神より授けられた役目であり忌むべきものではない。人間が死ねば、その肉体は天地へと還るのであるから、天地の神は穢れや不浄を言わない。お産・人の死・月経のときでも、平常と同じように神様を拝むように」と教えた。

以下はその一例である。

岡山県上道群北方村の石原銀蔵が参拝した時のこと。四十歳くらいの男が子供を背負って、門まで来ては帰り、幾度も来たり帰ったりしているのを集まっていた人らが見て、「金光様、あの人はどうしたのか、参りそうで参りませんが」と申した。

「あれは、親が死んで忌みの内であるからと思って、遠慮して参れずにいるのである。此方には忌み汚れはないから参ってもよいと言ってやりなさい」

と仰せられ、その人はそれから金光大神の前に出てお願いした。この人は、はじめ田地一町二、三反もあったが、しだいに不運で、ついに農具まで売って生活しているという。

金光大神は、「その方も、なかなかめぐりの深い者であるなあ。けれども、信心は物や金がなくてもできる。親が死んで忌み汚れがあるからといっても、信心はしてもさしつかえない。信心をするのに物や金はいらない。そういう身なら線香を六本買って、二本は天地の親神様へ、二本は先祖様へ、二本は神々様へと言って供えよ。そうしているうちには、今から半年ほどすると奥州で戦争があって、上から人夫を召される。財産の高に応じて人夫を出すことになるのであるが、金持ちは危ないと言って出ないから、それを代わって出てやれ。今度の戦争は向こうが逃げる一方であるから、危ないことはない」と言われた。

すべて、そのとおりに戦争が行われ、人夫が召されたので、その人は代わって出てお勤めした。日に二朱かの日当となり、代わって出てあげた方からももらって、それを元手としてもとの身代となった。

汚れ不浄を言うなよう、一皮の内には、みな包んでおるのじゃからのう、手足、体を洗うより、腹の内を洗うことをせよ

金光大神は、「この道では「不浄(ふじょう)」は「不成(ふじょう)」と書き、欲や憎しみや慢心など心の穢れが原因で、物事が成就しないのを神は嫌う。そのため、身の穢れよりも、日々、心の穢れを祓わなければならない」と教えた。

理解 #4地の神の理解

日本には八百万の神といって、大小多くの神が御座る。山・川・滝・森などに宿る神、古事記や日本書紀に登場する神、天皇や偉人などの御霊の神、他の国から伝来した神仏、密教、山岳信仰、方位神など、一口に「神」といっても色々である。

江戸時代の庶民の暮らしには、それらの信仰がごく自然に交じりあい、溶け込んでいた。

朝になり日が昇れば天道様を拝み、二十三日になると月の出を待ち、井戸には水神、かまどには土公神、方位神の所在する方角を気にして、床の間には仏壇・神棚をもうけては色々な神仏の守り札を並べてお祀りし、祈願の内容に合わせた神仏に祈りを捧げる。

文神には天満天神、武神には八幡宮・摩利支天・不動明王、五穀成就には稲荷大明神、男女の縁結びには出雲大社、安産には鹽竈大明神、火難をまぬがれるためには秋葉権現、育児には子育観音、疫病には祇園宮…

このように寄せ鍋のような信仰が一般のなか、金光大神の教えるのは実にすっきりとした信仰であった。

天地金乃神のご神体は天地である、宮社に鎮まり納まっておられるのではない。神に会おうと思えば、庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神。真日中が来たら空を見よ、丸い物が来るぞ。それが神ぞ。

金光大神は、「天」と「地」が神と教えた。「天とは人間から見て上、地とは人間から見て下。神は遠く彼方から人間を見守るのではなく、目には見えないがそこら中に満ち溢れており、歩いて通れば神の中を分けて通っているようなものである」と理解したのである。

これは当時の人にとって驚きであった。というのも、天の神を最上として拝む人は多いが、「地」そのものを神として拝むなど考えもしない。神々が住む華やかな「天」に比べ、死体や穢れた物をおさめる「地」は暗く・汚く・醜いイメージが強かった。

例えば、罪人が責め苦を受け続ける”地獄”、すべての罪の集まると言われる大海原の底にある”根の国底の国”、穢れに満ちた不浄の世界である”穢土”。また、金神にも陽の天金神と陰の地金神(地球の核はとても大きな金属)があり、後者は大災厄をもたらす邪神と恐れられ、何百年ものあいだ「逃げとけ避けとけ廻っとけ」と嫌われ続けた。

”地上の世界”や”地底”は、何かと悪いイメージがつきまとい、天(太陽と月)を最上の神として敬う人はいても、地を神として拝む人はいない。

そんななか、金光大神は地の恩恵を語りながら、以下のように理解をした。

天と地と、どちらの恩が大きいか、恩比べをしてみよ。天のことは言うな。いくら言ってみても空論である。天は父で、地は母である。父母がなければ子ができないが、子が生まれれば、父はなくても母だけでも育っていく。天の恩を知っても地の恩を知らないのは、父のあることを知って母のあることを知らないのも同じことである。

「恩比べをせよ」といって、「天のことは言うな」とは理不尽であるが、たしかに「天の恩」は、私たちの実際の生活との関係性がわかりにくい。

それに比べ「地の恩」は目で見て、手で触れられる。三度の食事のご飯はもとより、大根一本ねぎ一本、暑さ寒さをしのぐ衣服や布団、電球から便器まで、あらゆるモノの元を辿れば、みな地から生じた恵みだ。

小さな子どもにとって、仕事にでかける父親よりも、すぐそばに居て世話をしてくれる母親の愛を感じやすいように、天の恩よりも、地の恩の方が人間にとって身近である。

人の魂は天より授けられ、体は地より生じる。亡くなれば魂と肉体は分かれ、魂は天に還り、肉体は地へと還る。人間として生きている間も、死しんでからも、人間は天と地の世話になるのである。金光大神は、天だけでなく「地」を神として敬う大切さを教えた。

理解 #5信仰の諸問題についての理解

信仰とは、ひとつ誤れば”毒”にもなる。

「母が信仰をはじめたのがきっかけで家庭が崩壊した」
「宗教団体から離れるために、家族との縁を切ろうと考えている」
「結婚すれば自分や子供も強制的に入会させられそうで不安」
「高額なお布施や集会への参加をたびたび強要される」

人が立ち行くためのはずの信仰のはずが、それが元に苦しむ人が多いと聞く。その原因となるのは、神でも仏でもなく、”人”である。

「神の敵は神官、仏の敵は僧侶」という言葉を聞いたことがある。まったくそのとおりで神仏に仕える者は、神の名義(権威)によって人から崇められるため、とにかく慢心を起こしやすい。この慢心を起こせば、信仰はたちまち”毒”となる。

はじめは純粋な信仰であっても、規模がだんだんと大きくなり、お金や権力に心を乱され誤った方向へ進む事例も少なくないだろう。金光大神は、参る人たちや取次を行う人が慢心を起こして道を踏み外さないために、戒めとなる理解を残した。

その第一が、寄付の呼びかけの禁止である。

氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。人に向かい、寄進勧化を言ってくれるな。神を汚すようなことをしないようにせよ

世の中には、神仏の名を掲げて金銭を集め人を苦しめる者があるが、この道では例え神の社殿を建てるためであっても、無理に寄付を集めたり、人を苦しめてはいけない。神への寄付は、供える者の真心からのお供えでなければ、決して神は受け取らず、無理にお金を集めて立派な社殿を完成させたところで、その中身は空であると理解した。

以下は近藤藤守が、多額の寄付をしようと申し出を断る話である。

私が、「金光さまのご神殿の成就には三千円の金子がご入用とのことですが、その三千円の金子は大阪の氏子がお供えさせていただきます」と願い出たら、金光様は、

「近藤さん、その三千円は積んではあるまい。いずれ、大阪に帰って寄付を募るのであろう。周防の国の氏子も三千軒の氏子があるから一円ずつも出せばよいからと願い出たが、神さまは「さすなよ」と言われる。そこで、『せっかく氏子が願ったことをとめるのは悪いようであるが、よいと許した時には、国へ帰って、太郎さんも次郎さんもお出しなさい、お梅さんもお竹さんもおあげなさいと言って強いるつもりであろう。そうなると、喜んで出す者もあるが、数ある中には、出す金もなく悩む者もある。また後々では、あれは私がしてあげたと自慢する者も出て来る。「神は憂いの金では宮は建てない。喜びの金で宮を建てる。神が、後に、一人でできるような信者をこしらえてやる」との仰せである』と言っておいた」

このように、金光大神は寄付の強制は人を苦しめる原因になるので、多額の寄付の申し出を断った。金光大神の広前の建築はたびたび話に上がったが、大工の棟梁が勝手にお金を使ったり、村の有力者が「村おこしのために山の上に建築しよう」と結託したりと、神の心にかなわないことをするため、いずれも中止となった。

第二は、神を使っての商売の禁止である。

今日様は、昔から一文も取らずに守りてござるぞ。そこで、金光も銭はいらんと言うのぞ。神様を商法にしてはならぬぞ。金光の言うことを聞かぬと、罰をうけるぞ。

人は祈念や祈祷を行い対価をとるけれど、神は一度たりとも金銭を求めたことはない。天は日を照らすのも、雨を降らすのも、親が赤子に乳を与えるように、見返りを求めずに恵む。この道では、決してお札や守りを売るなどして、神を商法にしてはいけないと理解した。

金光大神は、真のある人には神名や心得を書いた書付を下げたが、お金を一切取らず、また授けるときに「絶対に人に売ったりしてはいけない」と念を押して渡した。

神のおかげは、”装束を着て行う儀式”や”墨がついた木の板”にあるのではなく「わが心」にある。これを忘れれば、信仰は形骸化し”お金を呼び込む石”や”幸運を招く壺”と同じになってしまう。そうならないための理解である。

第三は、他の神仏の尊重である。

神道も仏教も天地の間のものであるから、何派かに派などと、宗旨論をしたり凝り固まったりするような狭い心を持ってはいけない。心を広く持って、世界を広く考えて、手広くいかなければいけない。

金光大神の広前に参る人の中には、他宗を比較して悪口を言ったりする人がいた。以下は佐藤範雄の伝えである。

明治九年ごろは黒住の信仰が盛んで、大谷の近傍などではなかなか勢いがあった。そのころ私は神信心を始めて間もないことで、黒住などについて、金光さまのみ前で他の人々と共にあれこれと議論ばかりしていた。

明治十四年ごろから平田篤胤の書を好んで読むようになった。「医者、医道を知らず、神道者、神道を知らず。われ、その真を講ぜん」という書き出しで、仏教のあらを拾って書いてある書物であった。それを読んだものだから、金光様のみ前でキリスト教や仏教の欠点を探し出して、あれこれと申したこともあった。ある時、金光さまは、

氏子らの中には、此方の前に来て、人のことをそしるばかりする者がある。やれ、黒住はどう、仏道がこうなどと、そしったりする。自分の産んだ子供の中で、一人は僧侶になり、一人は神父になり、神主になり、また、他は役人になり、職人になり、商人になりというように、それぞれいろいろになった時、親は、その子どもの中でだれかがそしられて、うれしいと思うだろうか。此方の前に来たら、他人のことを言うな。他人をそしるのは、神のみ心にかなわないことになる。

むかしから天と地は「天父と地母」といい、万物を産み育てる親である。その天地の神のまえで他の神・仏・人の悪口を言うのは御無礼である。金光大神は、神仏のみ前を通るときには拝してから通れと教え、小さな祠にまつられる小神や、道端のお地蔵さまでも粗末にしてはならないと教えた。

その他にも「家内の和合が第一」と教え、家の者が神信心を嫌うのであれば、無理にお祓いを上げたりせずに心でひそかにせよとか、家族に教えるにも口ばかり立派になってはいけないとか、お参りをするにも数日前から仕事を早くすませておき空き時間を作り親を困らせぬようにしてから参拝せよなど、具体的な理解を残している。

信仰とは、本来、人が立ち行くはずのものであるが、慢心を起こして、道を間違えれば転じて人を苦しめる元になる。金光大神は、信仰が”毒”にならぬように戒めたのであった。

修行

一般に修行と言えば、真冬に水をかぶる水行、火の上を素足であるく火渡り、食物を断つ断食、お経や祝詞を一万回あげる万度祓い、数日にわたる瞑想、人里離れた山の中へこもるなどを指すだろう。

当時は、悟りを求めたり、神通力を得るために、そのようなきびしい修行を実践する人がたくさんいた。難波に広前をひらいた近藤藤守も、仙人に憧れている節があり、あるとき神徳を受けるために山にこもって修行をしようと思い立ち、金光大神に願い届けた。

「ぜひ、ひとつ、しばらくの間、山に入って修行させていただきとうございますが、いかがなものでしょうか」
「山に入ったら、どのようにして修行されますか」
「山に入ると、はじめは麦粉を練った団子で命をつなぎます。それをしばらく続けると、次には木の実や木の葉で生きられるようになります。またしばらくすると、ついには水ばかりで生きられるようになってまいります」
「いったい、どんな山に入りますか」
「なるべく深い山に入って、浮き世を逃れるつもりでおります」

これに対して、金光大神は以下のように理解する。

それは結構である。しかし近藤さん、何もわざわざそんな不自由な山に行かなくても、心の中に山をこしらえて、その中で修行をしたら、それでよい。自分が山に入った心になっていれば、どんなに不自由なことがあっても、また家内のこしらえたものがまずくても、けっして不足を言うことはないであろう

このように金光大神は、世俗の生活を捨てるような行ではなく、家にいながら心を改める心行を勧めた。その心行の内容とは以下のとおりである。

世の中に表行はだんだんする人があります。寒行して拝んで歩行しておる人もあるが、心行というて、人を不足に思わず、物事に不自由を行とし、家業を働き、身分相応を過ごさぬよう倹約をし、だれにも言わずに行えば、これ心行なり。

このように、派手に人目を引いたり、神より授かった体を不自然に傷めつける表行(わぎょう)よりも、人間関係・起こりくる出来事・仕事・お金の使い方など生活のことを練習台として心を改めよと勧めた。

しかし、その一方で夫の病気平癒のために裸参りを行った仁科志加に対して、「 その方はまことに一心の定まる女である。 」と喜んだり、子息の金光萩雄に修行について、「無理な事をすな。自分でしてみよう、と思うことはしてみい」と教えたり、二代金光大神(宅吉)は積極的に表行を行っていた点を考えると、一概に表行を全否定していたかは疑問である。

金光大神は、見た目が映える表行よりも、人の目に見えないところで陰ながらの心行を主としたため、修行に関する具体的な内容や記録はあまり残っていない。ただ、神様からの教えや指図を守ること自体が修行であったようである。本項では、それに関する逸話を紹介する。

修行 #1山伏の来訪

金光大神の理解が広がると、その教えに反対する者が広前へ来てたびたび妨害した。その代表は山中で修行をする山伏(やまぶし)たちである。

当時の山伏は、「東の方角が悪い、二十三日は良い日柄だ」と日や方位の吉凶を言ったり、「金神が祟っておるからご祈祷をしなければ大変なことになるぞ」と金神の祟りを人々に教えて祈祷を行っていた。

対して金光大神は、「日柄や方位は見なくてよい。金神さまにお断りをさせてもらえばよろしい。自分の都合のよい日が良き日柄で、自分の都合およい方角が良き方角である」とまったく正反対の教えをするのである。

くわえて、「人はご祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かるのである」と教え、家族の円満、食物の頂き方、お産に関する心得などを話して聞かせ、それで次々とおかげが現れて評判が立つので山伏からすれば面白くなかったのだろう。

金光大神の教えが広く知れるにつれて、加持祈祷を頼む人はしだいに減っていくので、山伏らは金光大神の広前へ行って妨害をおこなった。

文久二年三月二十四日、三人の山伏が庄屋の小野三右衛門のところきて、「百姓の分際で神を拝み、人に教えをするのはけしからん。是非さしとめ願いたい」と申し出て、翌日、金光大神の広前にきて、幕、幟、鏡、金のご幣、提灯、金灯籠、その他お供えを全て持ち帰ってしまう。

こうしてお広前に残ったのは神さまのお社だけになったが、参った人が幕や鏡などを次々供えたため、一カ月ものあいだで以前より賑やかな広前になった。

また文久三年の春のこと。金光大神が広前を退き、暮れ行く空を拝していると刀と脇差を帯刀した浪士たちが、ツカツカと庭に入って金光大神の面前に立ち塞がった。

「おい、こら百姓」と大声で呼び、「その方のまつる神は何だ」と問う。

金光大神が「はい、日と月と…」と答えようとすると、浪士はそれをさえぎって、「その方は金神を祟らぬ神とぬかし、方位方角を見るのは無用と言った。その理由を聞こう」と声を荒立てて、暦学・陰陽の議論を吹っかけた。

一人の浪士は広前に祀られている神棚を壊し、お供えものを庭先へと投げ出す。そして、一緒に来ていた山伏らが神棚の道具類から門内に積み重ねてある米俵を運ぶ。金光大神はすこしも抵抗をせずに、ただじっとしていた。

浪士は鯉口を少し寛げパチンパチンと音を鳴らし「如何に百姓、返答はないか」と迫るも返答がないので、ついには二尺あまりの水の垂れそうな大刀を引き抜き、真向から振りかざす。

その場にお参りしていた者は、あわてて驚くも、仲裁できる者はおらず、固唾を呑んで見守るばかりである。金光大神は切れるものなら切ってみよと言わんばかりに、首を伸ばしてうつむいた。

浪士は刀を振り上げたものの、金光大神のその態度を見て、そのまま刀を納めて帰っていった。

金光大神は一同に向かい「まだ私も斬られるところまではゆきますまい」と語り、神前で拝して「かかる不心得者も皆、大神の氏子なれば、この方身に引き受けて、その罪を取り払い願いたてまつる」とお詫びするのであった。

また、金光大神の子どもの萩雄がまだ幼少のころ。他の兄弟と一緒に寝ていると、夜更け頃に何者かが庭の方でガヤガヤ声高にののしり騒ぐ声が聞こえた。

何事かと思い、枕から頭をもたげて耳をすますと、荒々しい声で「百姓…斬ってしまえ」など、土足のまま家に入る音が聞こえる。

翌朝、金光大神にその話を聞くと、京都へ願いの筋あって出る山伏三人が 「京都に昇るから、旅費を納めよ」と大刀をもってきたとのことであった。

またあるとき、金光大神が座っている後ろから山伏が小便をかけた。あまりのことに周りにいた者は、「少しは抵抗してはいかがでしょうか」といったが、

「日ごろから神様に、氏子のことで世話をかけているので、ちょうど水垢離でもしようかと思っていたところである。温かいお湯で水垢離をさせてもらえるとは有り難い」と答えるのであった。

このように各広前に、たびたび山伏が荒らしに来たが、金光大神はこの出来事を以下のようにとらえていた。

このお広前へある山伏が来てかれこれしたことは、よくご承知であるが、これを自分が腹を立ててかれこれしてはいけない。これくらいのことは、神様のお力でお払いのけになることはわけはない。それなのに、そのようにたびたび来るのは、神様がおやりなさるのであるから、私はいっこうに腹は立てない。

金光大神は、「山伏は神が差し向けられる修行であり、打ち向かう者には負けて時節に任せよと、神様が仰せられるのは、ここのことである」と語った。

修行 #2日月を拝する

備中国浅口郡玉島町中替町三百七十三番に生まれた坂根利三郎の伝え。利三郎の父である友七は、赤沢文治(金光大神)と古くからの親しい間柄であり、利三郎が金光大神のことを知ったのは安政二年頃からで、安政五年三月十七日に大谷の広前へと初参拝する。

利三郎は、少しばかりの願い事はあったが、何のことはない、ほんの冷やかし半分の参拝であった。しかし、その願いが成就したことから、その後も疑いつつも一里余りの道を通って、金光大神のもとへお参りを始める。

その年の夏、金光大神は利三郎に向って、「明日から神さまのお指図により、土用の十八日間、日輪を拝する。」と伝えた。一年の中でもっとも暑い土用(七月下旬から八月下旬)に、日を拝むと言うのである。

疑い深い利三郎は、「さては暑いものだから当分、休むに違いない」と思い、土用のある日に広前をたずねた。

すると、金光大神はあたりに草も木もない広庭の中央に粗むしろを一枚敷いて、身には白衣をまとい、頭を斜めに太陽を仰ぎ見て、両手を高く額につけて端座している。

それを見た利三郎は、疑った自分を恥じたが、未だに疑念は晴れず、いくら何でも朝から日没までああではあるまいと、数日間、ある日は朝に、ある日は夕に訪ね、ときには終日のあいだ付近にいたが、いつもいつも食事に立つ気配もなく、身動きもせずに端座していたので利三郎は驚いた。

またその年の冬には、金光大神が「寒三十日のあいだ、木綿崎山で月の出入りを拝する」と言うので、利三郎はふたたび様子をうかがいに行った。

その日は、朝から雪模様で、寒さは骨を削るようにひしひしと身にせまる。夜の八時ごろ雪がちらちらと降り始め、やがて風邪も吹き、雪は一寸また一寸と降り積もった。どこの家も戸を閉ざして、道には犬の子一匹通らず、あたりは静まり返ってひときわ寒さが際立つ。

夜の十二時頃。利三郎は時が来たと喜んで、同村に住む福知屋多助を誘って、「金光大神の嘘の皮を引っぺがしてやろう」と夜中一時にとつぜん大谷の広前へ参った。利三郎は表から、多助は裏から抜き足差し足で行くと、神の広前には灯明がかすかに灯っており、人の気配がない。

さては寒いのでぬくぬく眠っておろうが…と雪を払って上がりこんだ。しかし、金光大神の姿が見えない。二人は表へ飛び出し、木綿崎山を目指して走った。野も山も雪また雪。ふと見ると遠くの山の頂に石地蔵のような人影があった。

利三郎と多助は、金光大神が人目を騙すためワラ人形でも据え置くのではあるまいと、なおも疑いつつ人影に近寄って、様子をうかがう。

そこには金光大神が端座していた。雪は膝を没し、体温の温かさで頭の上だけは雪が積もらず溶けている。

呼吸の根が絶えたか、凍え死んだか、身動きもなく頭を垂れ、両手を膝の辺りに合掌しているところが雪明りにくっきりと見えた。

二人は、そば近くへ寄り進み、「金光様、お寒くはござりませぬか」と声をかける。金光大神は、両眼は見張ったままで返答はない。

利三郎は重ねて、「金光様、お寒くはござりませぬか」と再び呼びかけると、この時、キッと顔を挙げて言葉を発さぬまま、鋭い眼差しで二人の顔を見つめた。

利三郎と多助は、強い電気に打たれたように立ちすくみ、跳ね飛ばされるように後ろへ退くと、一目散に山を下った。当時の模様を利三郎は「その時の金光大神の眼の輝きは、何ともお話のできぬほど、もの凄うございました」と語る。

それでも利三郎はまだ気が済まず、翌朝さっそく広前へ押しかける。すると金光大神は衣を改めていつものように端座して参った人に理解をしていた。

二人は、またまたその晩、またの夜も、次の夜も一人は広前へ、もう一人は山に赴いたが、金光大神はいつも木綿崎山の頂に、端座している。ついに日中に広前へ参ったとき、「疑いの雲を払え」と理解をされるのであった。

修行 #3お金を拾いに行け

金光大神がまだ百姓をしていた時の話。神のお知らせで「明日の朝、早う起きて玉島の町へ行け。金が五百円と落ちておる。それをその方へ授けてやる。拾うてこい」とあった。

金光大神は弁当をたずさえて玉島におもむき、所々をたずねたがどこにもお金は落ちていない。昼時になったので弁当をひらく。

金光大神は、「ただいままで、回りましたけれど、落ちておりませぬから帰りましょうか」と神に伺うと、「日が暮れるまでまわれ。是非、落ちている」と返答があった。

それから仰せ通りに探し回るも、一向にお金は見つからずついに夕方になった。金光大神は、「おちておらぬから、もう帰りましょうか」と再度うかがった。

すると神が、「その方の懐中物(財布)はあるか」と尋ねられる。金光大神は懐を手探り、「はい、私のはござります」と答える。「よし、その方が落とさぬほど大切なものなら、人も落とさん。帰れ。」とお知らせがあった。

またあるときは、金光大神が金神さまを拝んでいると、突然、「明日は、金を拾わせてやるから西へ行け」とのお知らせがあった。

そこで早速、弁当を腰にさげて神のお知らせ通り西へ向かって出かけた。昼頃まで足を棒にして、一生懸命に探し歩く。三里(12キロ)ほど離れた笠岡あたりまで歩きつめるも、一向にお金が落ちていないので、金光大神は金神さまに「この辺りでございましょうか」と聞くと、「もう少し行け」と返答がある。

金光大神は笠岡まで歩きつめ、再び「もういかがでしょう」とたずねた。すると、「ここで弁当をつかえ」と知らせがある。弁当を食べ終わると、「帰ったらよかろう」とのお知らせがあったので、家へ引き返した。

「ただいま、帰りました。ありがとうございます」と神前で拝礼すると、「金は落ちておったか」と神にたずねられる。

金光大神は、金はびた一文も拾っていないが、思案した末に「落ちていました」と答えた。

「いくら落ちていたか」
「分かりません」
「拾って分からぬことはあるまい」

「へい、いくらかわかりませぬ。私は、今日、久しぶりに体を動かすことができて、血のめぐりもよくなり、それだけ丈夫にならせていただくことが、できました。これは銭金では得られませぬ」とこたえると、「その方は、どちらから、持って行ってもよい方にとる」とお知らせが下がるのであった。

またこの他に、深夜、参詣人もないときに、神さまのお指図があり、広前から南の庭に出て、子どもが鬼ごっこをするように、西に駆けれ、東に駆けれと幾度も幾度も指示があり、もう止めよと指示があるまで続けたという。

修行 #4神の前に座り続ける

金光大神は、安政六年に神さまより「家業をやめて取次に専念してくれ」と頼まれる。それから帰幽するまでの二十四年もの間、そのほとんどを神前の右側に座り、参りくる人々の願いを神へと取り次いだ。

はじめの三年間は、神さまにあぐらをかくのを許されたが、その後は控の間においても足をくずすことはなくなった。また、お取次ぎの座にすわっているときは、どんなに暑い夏の日でもうちわや扇子を使わず、水が凍るような寒い冬の朝でも火鉢やコタツを遠ざけた。

当初は、朝はやくから夜おそくまで取次まで行い、お参りがあるときは食事をとらないときもしばしばあったが、明治初年に、神らかのお知らせで「朝六ツから暮れ六ツ」と定まった。

明六ツとは、だいたい明るくなり始める午前六時ごろで、暮六つとは暗くなり出す午後六時ごろである。日の神さまがお照らしになるあいだ、広前で神の御用にあたられた。

しかし、夜遅くでも神さまから「お参りしてくる人がある」とお知らせのあったときには、いつまでも結界で待っていたという。

ある冬の寒い風が吹く日のこと。角南佐之吉は何人かの連れと一緒に大谷に参拝をする。三蟠(さんばん)から船にのって玉島の港に行くつもりだったが、その日は風が強く、船が出なかった。

連れの人たちは「それでは、また日をかえてお参りしましょう」といったが、角南佐之吉と青井サキと利守千代吉の三人は「せっかくお参りしようと決めたのだから、歩いてでも参りましょう」と相談する。

寒い風が吹き荒れる中、三人はほおかむりをして話しながら、歩いて参った。

大谷へ着いたときには夜遅くなっており、金光大神はいつもなら下がられている時間であったが、いつものように明かりがついていた。三人が参ると、

「ようお参りしてきたなあ。寒かったぢゃろう。神さまが『備前から三人がお参りしてくるぞ』とお知らせ下さったので待っておった。宿の藤井の方へもそのことは伝えてある」と仰られた。一同は恐れいった。

三人が宿へ向かおうとすると、金光大神は「これを持って行って、料理をしてもろうて頂け」神前から大きなボラを下げてくれた。宿に行ってみると、食事の用意や、お風呂を沸かして待ってあった。

修行 #5その他の行

金光大神がまだ取次に専念する前のこと。神より、「秋中、行をせよ。朝起きたら衣装をきがえ、広前へ出て祈念をし、すみしだい広前へ膳を妻にすえさせ、朝食がすんだらすぐに着替えて、はだしで農業へ出よ」とお知らせがあった。

これを妻のとせに伝えると、

「それはいけません。大霜が降っているのに、はだしでは人が笑います。『神信心ばかりして一人前にわらじも作らぬのか』と人が言いますから」と反対される。

そこで金光大神は、神の仰せと妻の意見の両方が立つように、鍬などの農具にわらじを結んで出掛けた。

また、はだしの行をしているとき、神より「はだしで権現山に走って登れよ」とのお知らせがあった。

この山は家からわずか一キロ離れたところにある。金光大神は仰せの通りに、一心に走って山を登った。すると今度は「走っておりよ」とのお言葉が下がる。急いで下ると、ふたたび、「走って登れ」と仰せになる。こうして、金光大神は神のお指図をどおりに何度も山を登ったり下ったりした。

この季節には山の下草が刈り取られており、笹や小さな木の切り口が斜めに尖っている。それらを踏み抜けば足に大けがをするが、その中を迷わずに走ったという。


元治元年六月十日(1864)、神より「風呂につかったり、行水することはならぬぞ」とお知らせがあり入浴・行水を差し止められた。その後、明治六年三月十三日に「金光、生まれ変わり、十年ぶりに風呂に入れ」とお指図があった。

金光大神はこのお知らせを受けて「六十歳の自分は死んでしまった。ここから新たに生まれ変わるのだ」と思い、本来は戌の年六十歳のところを、この年の十二支が酉(とり)年だったため、「酉の年一歳」とした。

続いて同じ月の二十九日に「風呂に入れ」と指示があり、生まれ変わりのための産湯として風呂に入った。その後、「この後は風呂に入ることはならん。命を長くのばしてやるためである」と神が寿命長久にするためとの理由から、再び入浴と行水が差し止められた。

このようなお知らせから、金光大神は風呂に入らず、一カ月に二、三度、下駄をはいたまま水を掛けて足の先と手の先とを洗うだけであった。お風呂に入らぬとはなんとも不潔極まりないが、参った人が言うには衣服はつねに清潔で、いつもお風呂あがりのようにツヤツヤとした肌で、近づいても少しも臭うことはなかったそうな。


明治九年(1876)五月十日、神より金光大神に、「蚊帳をつるな。蚊がくうても、ちみどりになっても大事なし」とお知らせが下がり、三年と二十日のあいだ蚊帳を吊らずに三度の夏を越した。

金光大神は蚊に刺されると皮膚がひどく腫れあがる体質であったが、「当年は、格別に蚊が障らず」と記しており、三度の夏を無事に過ごしたのである。

金光大神や高橋富枝は晩年、蚊が刺さなくなったという。ある年の夏の一夕、金光大神と高橋富枝が話していると、妻のとせがきたが、あまりに蚊が刺すので、「ああ、かゆいかゆい。あなた方は蚊がくわぬからよいが、私は蚊がくうから、どうもならぬ。子どものところへいって寝さしてもらいます」といって出て行った。


金光大神は、着るもの一つにしても神さまのお指示どおりにされ、衣服を四季おりおりにかえるのも神に従い、己の意志で着替えることはなかった。備後上御領の佐藤光次郎が六月下旬(旧暦五月五日)に広前へ参拝したとき、金光大神はいまだ、綿入りを着ておられた。綿入りは冬物のため、「暑くはござりませぬか」と尋ねると「神さまからお指図がなければ着替えぬのぢゃ」と仰せになられた。

ときには風邪をひくことがあったようだが、佐藤光治郎に、「此方でもかぜをひくことはあるけれども、ひかえて休むようなことがあってはさしつかえるから勤めるが、少しも障りにならない。」と話した。

逸話

「生神」と称された金光大神であったが、生まれながらにして神であったわけではない。

もとは田舎の農家の次男坊に生まれ、凍った池の上で友達と相撲をとって遊んだり、神様を祀る祠を作って拝んで遊んだり、村の神社に芝居を奉納したり、友達にホービキという賭け事に誘われ負けてしまい父親に叱られたりと、他の子供とそんなに違いはない。ただ、神さまを拝むのが好きな普通のお百姓であった。

自身が執筆した「覚書」「お知らせ事覚帳」には、一般の百姓の家で育った源七(金光大神の幼名)が、養子に入り家を復興させるも、家族七人を亡くし、自らの病気を通して神と出会い、神に頼まれそれに応え、しだいに金光大神となっていく様が書き記されている。

といっても、綺麗なストーリーばかりでなく、弟が変死(自殺)したことから、お知らせと現実が違い大恥をかく場面や、息子が生活に困りお金をもらいに参って来たことや、娘が嫁ぎ先へ戻らずごねるところや、屁がカツカツ出たなど、普通ならば隠すであろう生神らしからぬ内容までしっかりと記されている。

このことから分かるのは金光大神は、生神と称えられた反面、人間らしさがあったことだ。この項では、そんな金光大神の生神らしさや人間味を感じる逸話をいくつか紹介する。

逸話 #1方位家と論を交わす

金光大神は参拝する者に、「 家相・方位・日柄は見なくてよい 」と教えていたが、世の方位・家相見からすればこれは甚だ迷惑であっただろう。あるとき、松浦一太夫(久信)という方位家相見が書物をたずさえて乗り込んできたことがあった。

松浦一太夫の義父は大阪の家相家「松浦東鶏」であった。当時、東鶏は日本一の方位・家相の研究家であり『方鑒精義大成』『家相圖解』『風水玄機録』などの著者である。

東鶏の門に入り家相・方位にひいでた一太夫は、義父の著作本四種をたずさえて大谷の広前へ出向いた。

「貴殿は、普請・作事に、方角・日柄を見るにおよばぬ。縁談・縁組に、相性・相克を選ぶにおよばぬ、と教えらるるそうであるが、書物にはかくかくと書いてあるが、これは如何にや」となじる。

金光大神は「この方は書物のことは何も知らぬが、神さまのおしえのとおりを理解しておるのである」と答えて、この旨を神前で祈念した。すると金光大神の口を通して次々に神がものを言われる。

「氏子、縁談に方角・日柄、相性・相克をみて、選ぶのは何のためか。縁が続きて、健康で子孫が繁昌するのを思うためであろう。その方角・日柄を見て選びたる婚礼の祝言が済むや済まぬで病気となったり、離縁となったり、死んだりするのはどういうことなら。…」

「…暦に『天赦日は万事よし』とあっても、棟上げの日に雨風があれば、今日は不吉な天気というが、それでも吉日といえるか。日の神・月の神に日の吉凶はないぞ。第一に氏子、大地のご恩を知らずして、大地に咎めや障りや災いをする神が巡るというのは大御無礼ではないか」

問答は半日にわたり続き、とうとう一太夫は「おそれいりました。広い天地に墨・曲尺をあて、方角を逃げようとする考えは間違いでござる。日々の日の神のお照らしに善悪は御座りませぬ。おそれいりました」とお詫びした。

たずさえて参った書物、『家相図解』二巻、『家相図説大全』三巻、『方鑑精義大成』二巻、『方鑑斑鳩夜話問答集』二巻を奉献し、その後、鬼門金神さまへと神信心をするのであった。

逸話 #2おばあさんの毒入りぼた餅

ある日のこと。桜が散って雨がしとしとと降っていた。一人の老婆が傘もささず、雨にそぼ濡れながら杖にすがってヨタヨタと金光大神の広前を訪れた。

老婆は、孫の病気が治るように参拝したと語り、「これを神様に」とぼた餅を供えて帰った。

金光大神が、老婆のぼた餅を神前に供えて祈念をしていると、やがて神さまが「菓子は下げても子どもに食わせな。その方一人、味おうてみよ」と知らせがあった。

金光大神はそのとおり、牡丹餅を下げて頂いた。

すると、見る見る顔色が青ざめ、呼吸は荒々しくなり、手足をもがき悶絶し始める。妻のとせは涙ながらに介抱し、付近の人々もかけつけて医師を招き大騒ぎとなった。

すると金光大神は、とつぜん一同に向かって「皆々よう見舞うてくだされた。死ぬも生きるも神さまのみ心のままぞ。打ち捨てておけ。神のご用のある身なら神様は助けてくださる。」と挨拶をして、お神酒をいただき、両手で合掌ををした。

口からは血潮が流れ、看護していた者は息絶えたと思い、「金光さん、金光さん」と叫ぶ。しばらくすると金光大神はむくっと体を起こし、「何方様にもお待たせ申した」といい、神前の脇にすわり、いつもと変わらぬように参りくる人に理解をはじめるのであった。

逸話 #3身分の上下を気にしない

明治十一年(1878)の頃、尾道に住む宮永延蔵が父、助四郎とともに参拝したときの話。金光大神は、助四郎に色々と理解しており、近傍の人も参り合わせ、みんなでその話を聞いていた。そこへ、相当の身なりをした人が参ってきたので、いあわせた者らは、思わず席をゆずる。

その人は金光大神の前へ進み、妻の病気について取次を願った。金光大神はその願い事をうけたあと、なお助四郎との話を続け、やがて話を終えて祈念の座につき、しばらく祈念ののち、「信心なされば、おかげを受けられる」とその人にさとした。

その人が帰った後で、助四郎は「あの方はどなたでありますか」とたずねると、金光大神は「あれは庭瀬の殿(板倉勝弘)ぢゃ」と答える。

助四郎はおどろき、「殿様ならば、いますこし、おもてなし方がありましょうに」と言うと、金光大神は、「氏子、人間には上・下の隔てがあるが、神には、殿であろうが職人であろうが、上下はないからそのつもりで神信心せい」とさとすのであった。

板倉勝弘が神信心をはじめるきっかけとなったのは、家来の弓場平兵衛から聞いたおかげ話である。

弓場平兵衛の妻がお産のとき、三日のあいだ医者が三人ついておっても生まれず、母と子の命が危なくなった。そのときちょうど平兵衛の家で働いていた人が金光大神の信心をしており、その人のすすめで大谷の広前へ参る。

そこで、「三日さきにお産をのばしてやろう。帰って見よ。子供はお腹の中におさまっておるぞ。母も子も無事にお産をさせてやる」と神さまの言葉が下がり、その通りのおかげを受けた。

これを殿様の板倉勝弘に話すと、大いに感じ入り、岡山へ行って神具を買ってきて天地金乃神を祀り、夜遅くまで祈念をするようになる。

板倉勝弘には、跡継ぎの男の子がいなかったが、ある晩に「子どもを授けてやる」とお知らせをいただき、その通り男の子が産まれた。それから金光大神の広前へたびたび参るようになったのである。

逸話 #4真心からのお供えをよろこぶ

明治十年ごろ、備中国川上郡成羽村で呉服屋を営む吉原良三は、広前建築の寄付金五十円を用意してお参りした。当時の五十円を現代の貨幣価値で計算することはむずかしいが、おおよそ百~三百万円くらいの大金であろう。

良三は、「今日は少々ご寄付をしようと思って参りました。よその神社やお寺では寄付札(寄付額と名前が記される札)を立てたりしますが、こちらでは、そういうことはなさらないのですか」とお伺いをした。

金光大神は、「あの人が五円寄付したので、私も五円しなれば、私も三円しなければということになり、それがたちまち神さまへの信心に不浄を入れることになるから、いくら寄付されても、そういうことはしないのである」と答える。

「寄付帳とか受付とかはありませんか」と申しあげると、

「はい、それもない。神さまへ上げられるのなら、ただ、さい銭箱に入れておかれても同じことである。金がなければ信心できないとなれば、貧乏人は、みな死ななければならない。私の方には乞食が参って、お供えする物がないと言っても、ご神米を下げるのである」と言われた。

良三は大金を持って来たので歓待されるかと思っていたが、調子はずれの話で間が抜ける。そこで五十円を出して、「ご普請の方へご寄付いたしたい」ともうしあげると、金光大神は一言、

「はい」

と答えて、神前に座りご祈念をする。それが終わってお結界に下がり、何も仰せられずただお座りになっていた。良三は心の内で「茶づけでも食べよと言われるだろう」と思っていたが、本当に何もない。お礼を申して帰ろうとしたら、いつもと同じように、

「それは、ご苦労であった」と言われただけであった。

このように金光大神は、大金を喜ぶのではなく、供える者の神さまへの真心を喜ぶのであった。以下はそれに関する話である。

浅口郡乙島に金神様に信心をして眼病平癒のおかげを受けた国枝三五郎という者がいた。ある年の夏の参拝のおり、初なりのスイカをお供えしようとこれをたずさえて大谷の広前へ向かう道中に、親子連れと出会った。

「どこへ、ゆかれるのか」とたずねられたので「大谷の金神さまへ、スイカの初なりをもって参ろうと思う」とこたえると、空腹であったのか子供が「わしも、金神さまになりたい」と泣き出してしまった。三五郎は不憫におもいスイカをその子にあたえて手ぶらで参る。

大谷の広前へ着いたのはよいものの、金神さまへのお供えを子どもにやってしまったので、広前の外でもじもじしていると、金光大神が家から出てきて「国枝さん、スイカの初なりは、神さまがよろこんでお受けとりになった」とお喜びになられた。

逸話 #5その他の逸話

ある年の氏神のお祭りに、金光大神の家に親戚の人がお祝いにやって来た。妻のとせは一人で、お客のお世話や夕ご飯の支度をしており、金光大神は、この日は朝から夕方まで一人の参拝者に理解をしていた。

とせは内心、「なにも今日に限って、あのように一日中お話をなさらなくても、よさそうなものに。この忙しい時に、肴の料理の一つでも、手伝って下されればよいのに」と不満に思う。

すると、裏の便所のところから大きな物音がした。とせが駆けつけてみると、金光大神がなぜか小便壺に落ちている。

「あら、まあ、まあ」

といいながら、とせは金光大神を助けて起こす。急いで着物を脱いで、裏の小川まで洗いに行ったりと大騒動である。

そうして神より、「親戚が大切か。お参りしてきている難儀な氏子が、助かるのが大切か。よく考えてみよ。神には考えがあってしているのに、それを不足に思っておろうが。主人(金光大神)が命を助けられた恩は忘れてしまい、不足な心を起こすから、余計に手がかかるぞ」と叱られるのであった。


明治十五年五月、墨や筆など小間物の行商をしていた堤清四郎が大谷の広前参拝したときの話。

金光大神に「儲かりますように」とお願いして、さらに「儲かった分の半分をお供えしますから」と、自分勝手な約束をする。

その後、信州に出稼ぎをして願いどおり大いに儲かった。「これはありがたい」と思い、約束どおりその半分の金を包んで、さっそく金光大神のもとへ参り、「お約束どおり、もうけの半分を持って参りました」と言ってさし出す。

しかし、「それはあなたがもうけたのだから、持って帰られるとよろしい」と突き返される。

「いや、お約束したのだから」と言って、またもさし出すと、金光大神は竹の先の割れ目に、お金の入った包みをはさんで、天井裏の所に突きさした。

それを見た清四郎は、「あんな所に突きさしたが、私が帰ったらあけて見るに違いない」と思って帰った。そして、相当の日数を経てあと、ふたたび大谷へと参拝した時、

「江州の堤さん、これは持って帰りなさい」

と言い、前のままの包みをすぐ取りおろして前に出された。その時、清四郎は「欲得を放すと言うが、なるほど」と、大いに感心したのであった。


明治十四年の夏ごろ、近藤藤守と妻の梅が二人で金光大神より理解をうけたまわっていると、五分以上もあろう山蟻が、何匹とも知れず、庭からご神前の方へとゾロゾロと列を作って這い上がっていく。

藤守は、とっさにお供え物についてはいけないと思い、「金光様、蟻がたくさんまいります」と申し上げた。

ところが、金光大神は見向きもせずに「ハイ、蟻も参詣いたします。参詣いたすとおかげを頂きますのぢゃ」と仰せになり、引き続き話をつづけられた。

すると、蟻は全部もと来た方へと列を作って帰っていった。

また同じ日に、部屋の隅の方から五、六寸のムカデが這い出してきて金光大神の膝のところへ入った。

右股と着物のあいだへ入り込んでいったように見えたので、「金光様、ムカデでございます。股の内へ入り込みましてございます」と申し上げると、「ほおっておけば楽です」と仰せられたまま、知らぬ顔でお話を続けられた。しばらくしてからムカデがはい出してきて、どこかへ行ってしまった。


金光大神は、駄洒落がお好きであったようである。以下は、金光大神の一口話。

玉島に風呂屋があるがのう、その風呂屋の亭主が、毎日、その隣の割木屋の木を盗んでたくのぢゃ。家内がそれを心配してなあ、やめなさいと言うてもやめられぬのぢゃ。しまいに、妻がここへ、「金光さま、かような訳でござります」と言うて来られた。

「それは取ってよい。かまいはせぬ。人の悪き・・はわが悪き・・じゃ」ははは

一口話その二。

この辺りに、まことに丁寧な者あり。その人に、 「何事も心得てよし。負けて勝つということがある。人の悪きはわが悪きと思えよ」 と理解を聞かせると、すぐに帰って、隣家の門に重ねてある割り木を担いで持ち帰った。

それに気づいた隣の人が「うちの割木を、なぜ盗んだか」と怒る。その人は、「あれは大谷金光大神のご理解に、『人のわるきはわがわるきと思えよ』と言われたから取った」と言う。

すぐに、その人は大谷へ参詣して、「金光様、先ほどあなたは、『人のわるき・・・はわがわるき・・・と思えよ』と仰せになり、すぐに私は帰りて、隣の外に割木があり、それを、みな私が持って行きましたら、隣の人がまことにやかましゅう言いますが、いかがに」と願いあげ。

「それは割木のことではない。めいめいの心得のことを話したのぢゃ」


金光大神は、「形に目をつけてはいけない」と理解し、自身の肖像画や写真などを一切残さなかった。ある人が金光大神の写真を写し、焼き増しをして人に売って一儲けしようと考えたが、なんど写そうとしてもうまく映らなかったという。そのため、お国替えの後に絵に描いたものがわずかに残っているばかりである。

当時の人が言うには、「体はお太りになっており、座ると腿のあいだが開くほどで、いつもお風呂から上がられたばかりのようなさくら色の顔色をされており、また、眉毛がたいへん長かった」という。

六・七歳の桂ミツが、親につれられて大谷の広前へお参りをしたときのこと。

まゆげのフサフサとしたおじいさんがおられるので、「おじいさん、こんにちは」とあいさつすると、「はい、こんにちは」と返事になり、頭を下げてまゆげがパサッと目の上にかぶさった。

これが珍しいので、「おじいさん、こんにちは」と再びあいさつをすると、「はい、こんにちは」と再び返事があり、またもまゆげがパサッと目の上にかぶる。

しばらくたって、ミツが「おじいさん、さようなら」と申し上げると、「はい、お帰りかなあ、さようなら」と丁寧にご返事をなさり、また、眉毛がパサッと目の上にかぶさった。これが面白くて、ミツは何度もくりかえしあいさつをしたという。


近藤藤守の広前に中野儀太郎という篤信な人がいたが、この人が大阪の島之内の丹波屋という菓子屋で八波のご紋の菓子をこしらえさせた。藤守は食べてしまうお菓子を八波のご紋で型取るなどは極めてもったいないことと思い、大谷に参拝して金光大神の指示を仰いだ。

「金光さま、今度このような菓子を信者がこしらえましたのでございますが、金乃神さまのご紋がはいっておりますので、誠にもったいないことと存じますが、如何なものでございましょう」と伺うと、

「のう、近藤さん、これまで二十人と五十人と参ってこられても、皆お願いばかりであったが、今は二十人、五十人の人が、皆お礼に来るようになられた。ご紋のお菓子までできたか。氏子が助かる蔓ができてうれしいのう」と微笑みながら仰せられた。

帰幽

明治九年の秋、伍賀慶春(ごがけいしゅん)が参ったとき、金光大神は色々と教えを話して聞かせたあと、声を小さくして、
「今、暦に新暦と旧暦と両方あるが、これから先その両方の暦で”九日十日”と重なる時があるぞ。そのときに神あがりする」と話した。これは自らの亡くなる日の予言ともいえる。

日本では明治五年に太陰暦(旧暦)から、より精度の高い太陽暦(新暦)が用いられるようになるが、この旧暦の”九日十日”と新暦の”九日十日”が重なる日に、金光大神は亡くなるという意味である。

”九日十日”とは、かねてから神さまが定めた金光大神の祭り日であり、日頃から参拝者に「毎月の九日十日は祭り日であるから、いっそう慎んで神信心をせよ」と教えていた。

この予言の通り、金光大神は旧暦の明治十六年九月十日、新暦では十月十日にご帰幽となった。

その前の晩、金光大神は家族を呼び集めて、「明日いよいよ神と成る」と話し、三十年あまり解かなかった帯を解いて寝入る。夜も更けて十日となり夜が明け空が白み、西の方から朝日が差し出したときに、「あぁ、心安し」と残して神あがりとなった。

この当時は、帰幽を知らせる伝達方法はなかったが、金光大神が神あがりになったとき、神信心の厚い者にそれぞれ神さまからのお知らせが下がった。

帰幽 #1高橋富枝編

明治十六年八月二十六日、高橋富枝は金光大神のもとへお参りした。いつものようにお届けをすると、「まあ、お入りなさい」と仰り、控の間に通されていつもと違いくつろいで話をされる。

「今晩はこちらにお泊りになってはどうですか」とたずねられたので、「今日は、はじめて六歳の娘を家に置いて参りましたので、帰りませんと母が困りましょうから」というと、「そうですか、それは仕方がありませんな」とどこか名残おしいように仰られた。

月もかわり十月十日、いつものように六条院の広前で、朝の祈念を仕えていると、
「金光大神は、今朝の明け六つ(朝六時ごろ)に神去りになったぞ。お包みと鏡餅とを、節句のお供えに持たしてやれ、佐方の一本松まで行ったら、知らせの使いに会うぞ」とのお知らせがあった。

そこでお包みと鏡餅の準備をして、主人の藤吉に頼んで、大谷に行ってもらった。藤吉が佐方の一本松まで来たところ、藤井広武という人がやってきて、

「金光様がお亡くなりになられました…『お葬式は、十三日にすること、その儀式のことは、西六の高橋藤吉さんに頼むこと、もし都合が悪かったら、入田の瀬戸廉蔵さんに頼むこと。』と前から金光様が書き記されておりますから、どうぞよろしくお願いしてくれるように、とのことです」と話された。

帰幽 #2近藤藤守編

明治十六年七月初旬、近藤藤守が大谷へ参拝したとき、金光大神は「近藤さん、神様のお話ももうよい。今まで熱心に道を聞きに来られて、十分にお話もしてきかせましたからな。今日から百日の行をしなさい」と仰せられた。

藤守は大阪へ帰り、特に心して神勤に励み、ちょうど百日が経った十月十日の朝のこと。例のごとく朝四時に起き出て、神前に端座しご祈念をしていると金光大神のすがたが見えた。

驚いて目を開くとその姿は消え去る。また額づいて目を閉じると、金光大神が笑みをうかべてスッと立たれる。これが三度繰り返されたので、これは金光大神の身になにか変わったことができたに違いない。もしや御寿命が尽きたのではないかと思うと「金光様はおかくれなされた」と心に響くように感じた。

妻の梅子にこれを告げると「ご無礼をおっしゃってはなりませぬ。金光様は生神でございます。決してご帰幽あそばすなどございませぬ」といって同行を承知しなかった。

いても立ってもおられぬ、参っていた参拝者十四、五人を連れてすぐに大谷へと出発した。心急ぐ藤守は、一時でも早くつきたいと道を急ぎ翌日の午後三時半ごろに大谷にたどりついた。

そっと門口からのぞいてみると、広前に萩雄様(金光大神のご子息)が座っておられたので、いよいよと思い飛び込むように進み出て「金光さまは如何なされました」とたずねた。

「昨日の朝ご神去りになりました」と萩尾様が仰せになった。「ご神去り」という言葉を知らなかったので、「ご神去りともうしますと」と再びたずねると「御帰幽(おかくれ)になりました」と告げられ、止めどなく涙が流れた。

帰幽 #3二代白神新一郎編

大阪の広前へ参っていた和田安兵衛は、十月七日に神様よりお知らせをいただく。金光大神が神前にお座りのままの姿で枕辺に現れ「明日、神上がりするから、白神にそう伝えてやってくれ」と告げられた。

安兵衛は驚いてさっそく大阪の広前へ参り、二代白神新一郎(白神新一郎の息子)へ伝えたが、「お前何を言う。金光様は生神じゃもの、お亡くなりになるようなことがあるものか…」と取り上げてくれない。

「もし間違ってもよいではありませんか。今から大谷へお参りいたしましょう。後でどんなに嘆かれても何にもなりませんから」と押してすすめたが、お許しが出なかった。

十月十日の朝、二代白神新一郎が、いつものように大阪の広前で祈念をしていたところ、「用事があるから、すぐに大谷に参れよ」との知らせがあったので、「何事でございますか」とお伺いをすると「悪いことではない」とのお言葉が下がった。

新一郎は、このお知らせで金光大神の神去りと思わず、後に「残念なことをした。和田があれほど言うてくれたのに」とたいへん後悔した。

帰幽 #4藤井吉兵衛編

広島の尾道の広前で取次をおこなっていた藤井吉兵衛は、祈念をしているときに「金光大神、神あがり。裃を用意してゆけよ」との知らせを受ける。そこで三、四人の人にこれを話すと、「そんなことがあるものですか…」といって、信じてくれる人はいなかった。

吉兵衛は深く思いあたるところがあり、「私はすぐに大谷へお参りに行く」と尾道の港から船に乗って、急いで出発する。船からあがり大急ぎでかけつけると、ちょうど金光大神のお葬儀の行列が出発しようとする時であった。

神さまから、「裃(正装)を用意していけよ」との知らせがあったので、吉兵衛は裃をきて御用する役割があるに違いないと考え、「何か御用は、ございませんでしょうか」とたずねる。ちょうど大榊を持つ役があり、お葬式につかえることができた。

帰幽 #5片岡次郎四郎編

片岡次郎四郎は、毎月十二里(約50キロ)の道のりを歩いて金光大神の広前へお参りをしていた。明治十六年の正月の参拝の折りに、

「本年、金光大神の身に虫が入ったとのお知らせを頂いた。その方も長いあいだ月参りをして、神徳をいただいてきたが、これからもできるだけ参ってきて、よく話を聞いておくがよろしかろう」と告げられる。

そこでその年は、毎月二回ずつお参りをしていたが、七月一日にお参りをすると、「百日のあいだ修行をせよ」「まだまだ教え伝えることが残っている。なるべく度々参ってくるように」との言葉が下がった。

次郎四郎は仰せのままに、たびたび参って話を聞き、百日間の修行をする。そして、十月十日、百日の修行を終えるお礼参りをしようと思い立つも、やむを得ない事情があり参拝を中止した。

部屋の柱にもたれながら、「いよいよ今日で、百日の修行も成就できた。ありがとうございました」と心の中でお礼を申し上げ頭を上げたとたんに、「金光大神、神あがり」と口走った。

おどろいて家の人たちに話し、すぐに大谷へ参ろうとするも、この日どうしても外出できない事情がある。そこで神前でお伺いをすると、「今日は参らないでよい。十四日にお参りしてこい、奥城(おくつき)で会おう…」との返答であった。

そして十四日、次郎四郎が大谷へお参りをしても、そこに金光大神の姿はない。裏の山に登り、あたらしい奥城の前に額づき「遅ればせながら、ただ今参りました」と心から申し上げると、盛り上げられていた墓土がぐわっと動く。次郎四郎は、心を受け取ってもらえたと感じた。

終わりに

生きた人間を「神」といえば、違和感を感じる方もおられるだろうが、天神さまの菅原道真もお大師さまも天照皇大神も、元はみな生きた「人」である。”人”は”神”に成るのだ。

人間ができる元を知れば合点がいく。人は生まれるときに、「分霊(わけみたま)」といい天より神の御霊(みたま)を分け与えられる。この御霊とは、”魂”であり、”心”であり、”神性”。これが地より生じた体と結びついて人とはなる。

つまり人間はみな、天と地の一部であり、神の子なのだ。ゆえに神より授かっている心を磨き改めれば、人は生きながらにして”神”となる。

金光大神の道は、心を磨き、人が神へと近づく道。神信心とは、わが心が神に向かうをもって信心と言うが、何も手を合わせて神頼みするばかりではない。日に日に心の穢れを取り去って、神の心に近づくこと。この道は、”人”が”神”に成る道である。

人は此方のことを生神であると言うが、此方でも、あなた方と同じ生身の人間である。信心しておかげを受けているまでのことである。大阪には天神祭りとかいうにぎやかなお祭りがあるそうだが、その天神様も、あの役の行者も弘法大師もみな、もとはただの人間である。わが心から神にも仏にもなられたのである。あなたも、神様の仰せどおり真一心に神信心しておかげを受け、人を助けて神にならせてもらうがよい

参考文献

金光教本部教庁(昭和二十八年)『金光大神』金光教本部教庁
金光教本部教庁(平成六年)『金教教典人物誌』金光教本部教庁
金光教本部教庁(昭和五十八年)『金光教教典』金光教本部教庁
金光教本部教庁(平成六年)『金光教教典人物誌』金光教本部教庁
金光教本部教庁(平成十三年)『金光教教典用語辞典』金光教本部教庁
近藤不二道(昭和五十六年)『史伝近藤藤守』金光教難波教会
金光真整(昭和五十八年)『教祖さま 上巻』「教祖さま」刊行委員会
金光真整(昭和五十八年)『教祖さま 下巻』「教祖さま」刊行委員会
水島道雄(平成十七年)『天地金乃神』金光教大阪府連盟(大阪毎日新聞連載記事の転載)

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