道のおかげ66選

 

道のおかげ66選- ご利益を受けた人たち -

道のおかげ66選- ご利益を受けた人たち -

ご利益で広がったお道


ご利益で広がったお道


霊験あらたかな金光大神の神信心は、岡山の大谷を境に右方左方へ伝わり、東は金光大神から白神新一郎らへと道が託され大阪、京都、東京、北海道まで伸び、西は斎藤重右衛門から藤井吉兵衛、浅井岩蔵らへとつづき山口、広島、四国、九州へと広がりました。

この広がりの元となったのは「神のおかげ」です。難儀な人が神に願い、願いが成就し、神の威徳に触れ、人から人へと伝承された。ここでは、その霊験の一部をご紹介いたします。

目次

その1.荻原須喜編#1頼む神を一つに定めて病気が治る

嘉永六年(1853)三月十一日、備中国浅口郡西阿知村で生まれた荻原須喜(おぎわらすぎ)は、豊松(とよまつ)を夫に迎えた。

明治六年(1873)、須喜は二十一歳の若さで血の道(婦人病)を患う。それから二年間、医薬はもとより、神仏に願い、加持祈祷と八方に手を尽くしたがその効果はなく、手の施しようがないまま悩み苦しんでいた。

ある日、彦さんという綿買い商人がきて、大谷の金光大神のもとへ参るように勧められる。なんでも話を聞けば、彦さんの妻と子供が病気になったときに大谷の金神様のもとへ参って頼み、言われるとおりにしたら病気が治ったという。

豊松はそれまで色々な人に加持祈祷を勧められ、その度にお参りしたが一向に霊験はなかった。今回の話もはじめはあまり気が進まなかったが、彦さんが「いっぺん騙されたと思うて、大谷へ参られよ、必ずおかげが受けられる」と確信をもって勧められるので心が動かされる。

翌日、父親の荻原利喜三が代わりに金光大神のもとへまいり、須喜の病気についてお願いを申し上げた。これに対して金光大神は、

「そちらの娘は執念で疑い深い、頼んでやっても少しも信心気がない。二へんとは言わぬ。いっぺんだけでよい、夫(豊松)を参らせい」と告げる。 利喜三は、家に帰り豊松と須喜にこれを伝えた。

豊松はこれまで、色々な信心の道に入り拝み方を覚え、知るかぎりの神仏の御名をとなえて、大日本大小の天つ神・国つ神を繰り返し拝んで大の信心家気取りでいた。そんな自分が直々に指名をされ、参れと言われたので感じ入った。豊松は翌日、金光大神のもとへ参詣する。

「巳の年(豊松)、お前方はどのような信心をしておるか」
「へい、日本国中のあらゆる神仏、残らず全て信心しております」

自信をもって答える豊松に、金光大神はこんこんと話を聞かせる。

「それはあまりの信心ぢゃ。そう信心しすぎては、おかげはないわい。その中にここが有難いと思う所はないか。むかしから神信心をしておかげを受けるには一心と言おうがな。お前さんの信心は一心になっておらぬ。日本国中の神仏をみな信心するというが、それはあまりの信心ぢゃ。」

「例えて言えば、女でも一心を打ち込む男は一人しかいない。この男こそと思うたら、心の底から一心を出して身も心も打ち込んでしまうのでなけりゃ真の恋ではない」

「人にしても、頼みがいがある人がおろう。何事を人に頼むにも、一人にうち任せると、その人が力のかぎり世話をしてくれる。二人三人に頼むと物事がはかどらぬ。大工でも棟梁がなければならぬ。日本国でいうと、天子(天皇)が芯、一国では領主が芯。一家では亭主が芯。草木にしても芯というたら一つにかぎる。神信心もこの一心をだすと、すぐにおかげがいただける。」

豊松はこれまでの自分の信心はなってなかったと悟り、「これよりあなたへ一心になります」と答える。金光大神は「それはいけぬ。帰って一家相談のうえで決めよ」と諭すのであった。

また重ねて、
「もうひとつ、言うて聞かせることがある。丑の年(須喜)はまことに執念な者で、常に不足ばかり並べておるが、不足には神のおかげはない。昨日も今日も参らんでもよいと言ったろうが。日夜、諸事万事に不足ばかり言うておろうがな。」

続けて「こう言おうが、こう言おうが」と何十と須喜の不足口を一分一厘違わずに指摘する。

「それじゃから、病気もしておるのぢゃ。よくもならんのぢゃ。帰って丑の年に言うてみい。そうして丑の年が私が悪かったと腹の底から改心したら、家内中相談のうえで好きな所へ信心せよ。きっとおかげが受けられるからのう」

豊松はありがた涙にかきくれて家に帰り、一部始終を伝えた。須喜にとってはその一言一言がまことに心に響き、「わたしは諸事万事について、不足とわがままより他になかった。一寸刻みにされても仕方のない人間でありました」と、これを限り心を改めて金神様へと一心におすがりして、おかげを頂く決心をする。

須喜は日夜、金神の神棚に向かい、これまで不足を言ったご無礼をお詫び申し上げて信心した。すると須喜の体はしだいに快方へ向かい、二十一日目にはすっかり全快した。

豊松と須喜は、二十一日目に大谷の広前へ三里半(約14キロ)の道のりを歩いてお礼参りをする。まだ病み上がりであるため杖を着いて出掛けたが、西へ西へと進むにつれて次第に元気になり、玉島に着いた頃には杖が不要になり途中で杖を捨てて参った。

金光大神の前で須喜は、頭を畳にこすりつけて言葉も出ず、ただありがた涙を流すばかりであった。

「丑の年ありがたいかや、よくおかげを受けられたのう。こんなにありがたい心になったのならば、二か年も難儀せんでもよかったのに。今まで長う痛うて辛かったのと、今おかげを受けてありがたいのと、その二つを忘れさえせにゃ、その方の病気は二度と起こらぬぞよう」

「これからはのう、人が痛いと言うて来たら、我が痛いときの心をもって、神に頼んでやれ。自分が治ったから人の痛みは知らぬという心になると、またこの病気が起こるぞ」とねんごろに諭すのであった。


その2.荻原須喜編#2人を造るも殺すも自由自在

血の道のおかげを受けて、西阿知で取次を行うようになった荻原須喜(おぎわらすぎ)は、病気や家庭の不仲で困っている人に自らのおかげ話をきかせた。

「私は不足口ばかりを並べてそれが神様へのご無礼となり、血の道を患い二か年ものあいだ難儀をして苦しみました。金光様より自分の心得違いを教わり、心を改めさせてもらい、一服の薬も用いずに三週間で全快のおかげをこうむらせてもらった。あなたもご信心をしておかげを受けなされ」

須喜のおかげ話を聞いた人たちは、次々におかげを受けたという。須喜はそのお礼を申すため、金光大神のもとへと参拝を重ね神信心を進めていった。

明治七年の初春、お礼参りをしたときのこと。須喜と豊松は結婚してから一年経つが、未だに子どもが出来ないので、神様にお願いをした。

「金光様、日夜、身に余るおかげを受けて大変ありがたいことでございますが、私らにはいまだ跡継ぎがおりませぬ。どうか子供を一人授けてもらいとうござりますが」

金光大神は、「うん、それは神の方で、はや授けようと思うてござる。今年の九月を楽しんでおるがよい」と仰せられた。

そのとおり須喜は九月に妊娠をして、翌年には丈夫な長男源兵衛を授かった。須喜は先で四男二女の子宝にめぐまれ、子孫繁栄のおかげを受ける。

さっそく、長男が生まれたお礼参りをさせていただいたが、この時に、

「丑の年、親のもちかえは出来ぬものぢゃからのう。親を大切にさんせえよう。辰の年(父利喜三)は、来年の四月二十一日に安心のおかげを頂くぞ」

と仰せられた。夫婦は「父は来年四月二十一日が寿命かな。大切に大切に」と話し、利喜三にできる限りの親孝行を尽くしていたが、年が過ぎて正月、二月、三月が過ぎ、四月を迎えるも何の変わりもない。

ついに命日となる四月二十一日がきたのだが、利喜三は朝から元気よく裏の菜園で種をまいていた。

「金光様の仰せには万に一つの間違いもないと思うておったが、今回ばかりは違ごうていたなあ。生きている間に孝行せよという戒めだったのだろうか」と須喜と豊松は顔を見合わせた。

ところが、種をまき終えた午後二時ごろ。利喜三は「お須喜や、少し気分が悪いから、お茶を一杯持ってきてくれ」と頼む。須喜は急いでお茶を準備して差し出す。利喜三はそのお茶をぐぐっと飲むと同時に、ううんと後ろへ反りかえってそのまま息をひきとった。

須喜は一連のおかげを思い返して悟る。子どもをお授けのときも少しも違わずおかげをくださり、この度、父のお引き取りも一分一厘違わぬが、ただ前から分かるだけでない。神が人を造りもし、殺しもし、病気も差し向け、快癒もさし、天地が自由自在にしているのだと。


その3.青井サキ編両親の病に苦しんだ十三歳の娘

青井サキは、嘉永六年(1853)十二月十二日、備前国上道群沖新田で生まれた。父平七はサキが十三歳の頃、病気によって歩行が不自由になり、祈祷者や按摩師や医師をまわってたずねたが、一向によくならなかった。

母りよは父の病気を苦心するあまり病んでしまい、一年の八割を床に伏せてすごし、医師からは「死なんとして死なれず、生きんとして生きられず、難儀ぢゃわい」と情けをかけられる。

さらにサキは十八歳のときに勢吉を夫に迎えたが、この人がまことに遊び人であった。人から「やけ勢」と呼ばれ「飲む・打つ・買う」の三拍子が揃った道楽者で、金のあるうちは家に近寄らず、金が尽きると帰ってはせびり、サキの母を蹴ったり踏んだりする有様である。

サキの家はもともと相当な財産があったが、両親の病気と旦那の放蕩で底をつき、将来の希望を失ったサキは親を思う一念だけで、神仏に頼むのであった。

あるとき、人のすすめにより備前福泊の赤壁の金神と呼ばれる、難波なみの元へ参った。ことのしだいを話すと、なみは「此の方の神信心は、一心すれば治る。私の話を聞いて帰り、両親へ話をして二人が得心すれば、おかげをいただく」と伝えた。

さっそく家に帰って、なみに言われた通りを両親に話しをする。なみの元へ参っては話を聞き、帰っては話すを繰り返すうちに、それまで愚痴が多かった両親の気分も穏やかになり、サキはなお一心に打ち込んだ。

あるとき、なみに連れられて大谷の金光大神の広前へと参った。金光大神はサキに、「どの神へでも、わが一心と思う神へすがりさえすれば助けてくださる。あの神へも頼み、この神へも頼んでは、神の力のおよぶ範囲は知れぬわい」と教える。

また、「私の夫がまことに道楽者で困ります」と申し上げると、「一心さえすれば、どうなりとなるわいの。神が都合をつけて、やりくりしてくれるわいの」と教えられた。

サキは、これまで以上に力いっぱい一心を立てて、金神さまへと向かった。千日間のお参りを決意し、父のためには布切れで千匹猿を、母のためにはくず糸で千手毬を作って供えながら、毎朝四時に起きてなみの広前へ参拝を続ける。

間もなく、夫の方よりやむを得ず身を引かねばならない時期が来て、自然の流れで夫との縁が切れ、十年間足の立たなかった父も、母も共にすっかりと全快した。

サキはその後も神信心に精を出し、取次を専念するようになり、後に香川の小豆島にわたり広前を開くのであった。


その4.角南佐之吉編家庭の不仲が罪をつくる

角南佐之吉(さなみさのきち)は、安政三年(1856)六月四日、備前国上道群沖新田で生まれた。

角南の家系は代々農業をして村でも屈指の財産家であったが、父岩三郎の代になって飼牛が死んだり、一年に三人も葬式を出し、生活も思いどおりにならず屋敷を手放すなど、何かと不幸が続いてた。

また佐之吉をはじめ、父岩三郎、兄財三郎はきわめて気性がはげしい頑固者で、家族仲が悪くつねに衝突をくりかえし、同じ田んぼで働くのすらままならない状態だった。佐之吉の妻和加は気が弱く、たびたび陰で泣いていたという。

明治十一年、佐之吉と和加との間に長男平治が生まれるが、体が弱く、発育も遅く家族一同は心配した。その頃、政津で取次をおこなっていた青井サキに「備中大谷に霊験あらたかな金神様があるから、お参りしておかげを頂きなさい」と勧められる。

佐之吉は、心の中で「きつねやたぬきを祀ってある流行り神であろう」と見下げるも、子どもの容体がよろしくないので、わが子の可愛さから連れて行ってもらうおうと決めた。

サキが佐之吉の息子の病気平癒を願うと、金光大神は、「そうじゃのう、氏子ひとり捨てるわけにはゆかぬわい。まあ、あとのおかげを受けなさるがよい」と言い、続けて、「この方がきつねを使うと言う者がおるが、きつねを使うなら、百人参れば百匹、千人参れば千匹使わねばならぬなぁ、ははは…」と笑うのであった。

サキは、「この人の家には、罪が多いに違いないというのですが」と問い、これに対して金光大神は「うちうちで、罪を造らぬようにせぬといけぬのう」と答える。

「どういうわけでありましょうか」とたずねると、「うちの者が夜寝て体を休めても、その方(佐之吉)のために心を休められぬと、御無礼になるわい」と告げた。

佐之吉は、家族の者が自分に手を焼いているために、このように家に罪ができていると知り、得心して神に御無礼を詫びた。その後、長男平治は亡くなってしまったが、次は娘ができた。

大谷へお参りをして「金光様、今度は娘ができました」と申し上げたところ、「罪という罪は、車の輪が回ってくるようなものである。壊れた箇所があると、また回って来る。それでは子供が育たないから信心をしなければならない。力を入れて信心をせよ。力を入れないと、どうにもならなくなる」と告げられる。

佐之吉は以前、得心をして御無礼をお詫びしたが、それで生来のはげしい気性が治まったわけではなかった。あるとき佐之吉と父岩三郎のあいだで、意見がはげしく衝突する。

佐之吉のあまりのふるまいに父岩三郎は、おもわず一人娘ソデの嫁ぎ先に逃げて行ってしまう。程なくして姉が父を連れて帰省し、親子の仲裁に入りなんとか治まった。

その後、佐之吉が大谷へ参拝をしたとき、金光大神から「書付」を授かり、この書付の、「和賀心(わがこころ)」について話を聞かされた。

天地書付(生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日でたのめい)
「天地書附(てんちかきつけ)全文」

「和はやわらぎ、仲良くするという字で、『加える』との意味もある。賀は祝賀の賀で『いわう』とも『よろこぶ』といもいう字じゃ。信心するものは、この『やわらぎよろこぶ心』でなければいけぬ。この心で信心すれば、おかげがある」

佐之吉は、さながら電気に打たれたような衝撃を感じ、心の悪根が根もとから砕け去る気がし「あぁ、わしが悪かった」と心底改まるところがあったという。

家に帰ると、すぐさま父に「お父さん、わしが悪かった。許してくだされ」と手をついてお詫びをした。

するとあれだけ頑固な父も「いや、お前が悪いのではない。このわしの方が悪かったのじゃ。年老いて、若い者の言うことを聞かずにいたわしを許してくれ」とお詫びを言われ、佐之吉の妻和加も「私が一家の主婦であるのに、どちらの機嫌もようとらずにおりました。どうかお許し下さい」と三人で共に詫び合い、一家の心が解け合った。

佐之吉はその後、二男三男が生まれるも幼いうちに他界し、四男魏(たかし)が生まれて二代金光大神の元へ参ったとき、「辰の年、今度はかかり子(長生きして老後の世話をしてくれる子)ぞ。おかげを受けたのう」といわれ、その通りになった。それからは五男土松、六男古と生まれ、みな元気に育った。

角南家の人柄は、肝が据わっており、負けん気が強くどこまでも頑固を貫き通す気性なので、不和が続いていた。それが佐之吉の心の改まりが起因となって一家の和合となり、家の罪を取り払えたのであろう。

佐之吉は、神信心をすすめて取次で人を助けるようになり、後に岡山の九蟠で広前を開くのであった。


その5.高橋富枝編#14人の逆子の安産

天保十年(1839)、備中国浅口郡六条院西村で生まれた高橋富枝は、21歳のときにはじめて金光大神の広前へ参り、一心を立てて神信心に励んだ。金光大神からは「千人に一人の氏子」と称され、後には金照大明神(こんしょうだいみょうじん)と神号を授けられる。

富枝は取次者として神に仕えるために、生涯独身を貫くつもりであったが、金光大神より「神は一代仏を嫌う」と諭され、仁科藤吉と結婚をする。

富枝が妊娠をしたときのこと。大谷の広前へ参拝すると、金光大神に「つわりは無いようにしてやる、腹帯はするな、産後でも平常の通り足を伸ばして寝よ、よかりものによからず神にもたれて丈夫を願い、これからは金神の神棚の方に向かって産をせよ、お産でしくじりはさせぬぞ」と告げられる。

言われたとおり、富枝に妊娠中の病みつわりはなく、出産直前まで参拝者の取次を行い、出産前日には三十六人の取次ぎを行えた。そして出産当日、ついに今にも産まれそうになり神に「参拝者をお止めください」と願うと「これきりでとめてやる。午後三時には産まれさす」とお知らせが下がる。

「金光大神はお産でしくじりはさせず」と言われたが、産児は足の方から生まれそうであった。足から産まれる逆子は難産・死産が多く、現代では足から産まれる時点で帝王切開となる。

それを見た富枝の母親は「いくら金光様が申したからといって、腹帯もせずにおるからしくじったのじゃ。これは逆子じゃないか」と心配した。

富枝が神へ伺うと「頭を下へつければ逆さになったと言おうが。誰でも庭の口を出るには足から先に踏み出そうが。神が産ますのだ。心配はない。三つ張りがきたら生まれる」とお知らせがあり、その後、陣痛もなくスルリと出産した。

翌日、「金神さんを拝む人はおらんかな」と老婆がたずねてきたので、すぐ祈念をしてあげると、それから次々と参拝者がみえて終日まで拝む。富枝は産前は身軽く、お産は軽く、産後は平日の通りに過ごすのであった。

富枝は5人の子どもを出産したが、頭から産まれるようにお願いをした四男政一の他はみな足から先に産まれ、みな安産であったという。

末の子澤野を出産をした後、金光大神の元へお参りをすると「その方は神の教えをよく守り5人の子どもを安々と産み落としたによって、その方を日本一社の産の神と差し向けてやる。そのおかげ話を人に伝えて皆々おかげを受けさしてやれ」と教えられたのだった。


その6.高橋富枝編#2金神たぬきを成敗を致す

六条院で取次を行う高橋富枝であったが、ぴしぴしとおかげが立ち次々と人が助かるので、これをよく思わない人からたびたび妨害を受けた。

ある日、富枝の元に「今晩、重太夫という神楽太夫が富枝の広前に参り、たぬき落としの祈願を行う」という通達がくる。

何でも、富枝の家の後ろでキツネが鳴いたので、これが「村内に金神たぬきを信ずる者がいるので、村の荒神社のご規定に叶わぬ」という荒神様のお知らせだという。

その晩、村中の人が酒を用意して、ぞろぞろ富枝の広前へやってくる。たぬきか神か正体を見定めようと、面白半分で集まったのである。富枝の家は内から外まで人でごった返しになった。

そのうち重太夫もきて、家の前の池で水垢離をとり、広前に座り日本国中の神々様を降ろすと祈祷を始めた。富枝はその後ろに座り、六根の祓いをあげる。

しばらくして重太夫は富枝の方へと向き直し、声を上げた。

「これよりいよいよ『みくま』を上げる、もし『丁(偶数)』が出れば神とする。米粒半分でも混じって半(奇数)が出れば、たぬきとする」

大勢の見物人が見とどける中、重太夫は米粒を握り「いよいよみくま」と叫び、笏の上を構えて米粒を宙に投げる。

すると笏の上に二粒のお米が乗った。「丁」である。重太夫は一同にこれを見せ、「いよいよ二番打ち」と叫んで再び米を投げた。

笏の上には四粒のお米が乗る。またもや「丁」である。これも一同に見せ、最後に「三番打ち」と叫んで米粒を投げると、今度は六粒の米が笏に乗った。三度目もまた「丁」である。

重太夫は一同に向って、「いよいよこれは神に相違ありません。初めにたぬきと申しましたのは、自分のみくじの受け取り違いです。大変失礼した」と言い残して、いそいそと逃げるように帰っていった。


その7.高橋富枝編#3病気の身代わり

六条院で取次を行う高橋富枝がちょうど二十六歳の頃のこと。富枝が斎藤重右衛門に用事があり、笠岡の広前に参ると大松というお婆さんが参詣していた。

話を聞くと、あるお寺の薬湯に入ったとき、湯あたりがしてハンセン病の様な症状となり、一週間あまり食事が喉を越さず、体が衰弱しているので病気平癒のお願いにきたそうだ。

斎藤重右衛門が神前に向うと「この病人は、一週間の間も食を断っており、体の根精が弱っているから、『おもてがえ』をせねば助からぬ。徳のないものには持たせられぬが、西六の高橋が参ってきておるからこれに持たせる、八時頃から移る」と知らせがあった。

富枝は一間を立て切ってその中に寝て、おもてがえが始まるのを待っていたが何の変わりもない。

九時過ぎに大松の人がきて「病人は悪いままだ」という。重右衛門は「氏子が守り(取次者)にすがる心がないからおかげがない。守りに頼る気になれ、神ばかりを拝んでいてもおかげはないぞ」と告げる。

やがて十時ごろになると、富枝の体に異変が現れ、血のようなものを下す。手水鉢へ這い出ては水をすくって飲み、何度も便所に通うのであった。

三時ごろに富枝が神様へお伺いをすると、「あと一回にて止めてやる、今晩は豆腐の入った卵雑炊をたべさすぞ。これは誰にもいうな。かまどの神に言いつけるから、寅の年おまきを呼んでかまどの神に伺わせよ」と返答がある。

重右衛門がおまきを呼び、かくかくの理由であるからかまど神にお伺いせよと伝える。おまきはその通りに伺い、「ヘイ、豆腐を入れて卵雑炊をせよとのみ教えでござります」と言った。これを聞いて富枝は満足に笑みを浮かべる。

十時から三時までのあいだに七十五回も便所に通ったが、その後雑炊を三膳いただき体は全快して平常に戻った。一方、大松のお婆さんはというと、十二時頃から茶漬けを食べられるようになり、次第に全快したという。

後に金光大神より、「おもてがえ」は人が迷い、道の差支えになるから今後はしないようにと止められるのであった。


その12.瀬戸廉蔵編食物が薬となって目が開く

瀬戸廉蔵(せとれんぞう)は嘉永三年(1850)五月三日、備中国小田郡岩倉村で出生し、明治六年(1873)に入田村の瀬戸利助、りかの養子となった。

廉蔵はその二年後に、青そこひ(緑内障)を患う。医師十一人に治療を受けるも効果はなく、病は重くなるばかりである。同年五月に、備後国中津原に眼科の名医がいると聞き、150日あまりにわたり治療を受けるも、かえって病状は悪化し盲目となった。

さらに、この療養中に毒断ち(極端な食事の制限をおこなう治療法)を行ったのが原因で、身体が衰弱して足が立たなくなる。

瀬戸家は、養祖父、養父、廉蔵と三代にわたり養子が続いており、その三代ともが眼病を患っていた。養父の利助は門田から入った人で、瀬戸家にきてから盲目となり、何処へ行くにも人に手を引かれていたという。

眼病が遺伝とすれば納得もいくが、血のつながりがないのに、三代続いて盲目となるのは普通ではない。

この上は、神に祈る他なしと思っていたところ「西六に大谷分社とて霊験著しき金神様があり」と噂を聞く。廉蔵は意を決して、明治八年十月一日にかごに乗って六条院の高橋富枝の広前へと参拝をした。

富枝が祈念すると「この氏子、心配からいたく根気を損じておる。根を養い取り立てさせてやるから、おかげをいただかせよ」との言葉が下がり、続いて、

「餅を下げて、雑煮にして頂かせてみい。氏子が有り難う箸をとるようだったら、おかげになる」との神の知らせが下がる。

じつはこの年の正月元日、廉蔵は餅を食べたあとに眼に痛みを覚えたため、「餅は眼の毒、もう決して餅は頂かぬ」と決めていたのであった。

富枝はさっそく、雑煮を作って差し出す。

「これは神様のお下がりで、ことさら氏子に頂かせいとの仰せでありますから」

正月の出来事が頭によぎる廉蔵であったが、神の仰せならばと思い「有難く頂戴致します」と雑煮四杯、計十二個の餅を食べる。

「餅は目に毒」と思い込んでいた廉蔵であったが、雑煮を食べてかえって気分がよくなったため、「このまま神のおかげを受けて、眼病が治るまではどうなっても帰らない」と意を決した。

それから富枝の広前に留まり、わずか三日でお膳の上に並んだ食物がうっすら見えるようになる。

神さまへお礼を申し上げると「今日は験を見せたのぞ、明日からは元の通りになるが驚くことはない」とお告げがあり、そのとおり翌日には晴眼した。こうして二百日余りに及んだ眼病は、おかげを受けて全快した。

十月八日、金光大神の広前へはじめて参拝したところ、「その方の家は、信心すれば楽じゃが、信心せねば荒れ屋敷になって、ヨモギが生えるぞ」との知らせを受ける。

その後、廉蔵は金光大神の広前へたびたび参拝し、教えを受けて神信心に励み、後に入田で広前を開くのであった。


その13.秋山米造編腹痛の快癒と将来の指示

文久元年(1861)、備前国岡山の内山下に生まれた秋山米造は、幼い頃から親に伴われて蓮昌寺に参り、お経を上げていた。子供ながら礼拝の様子がよいので、住職から養子にもらいたいと言われることもあった。

米造が九歳のとき、持病の腹痛で何日ものあいだ悶え苦しんだ。父の甚吉は、同僚の土師市蔵のすすめで金光大神の広前へ参拝する。

父甚吉が参ると金光大神は「帰ってみい、治っておる」と言われ、甚吉が家に帰るとその言葉どおり、米造は快癒していた。家で寝ていた米造であったが、不思議とこのとき父が金光大神にお願いをしているのが分かったという。

それから三年が経った米造が十二歳のとき、隣の家の小野喜右衛門が熱病のため苦しみ、祈念を頼みにきた。米造が祈ると翌朝におかげがあらわれ、喜右衛門がよろこんでお礼にきた。これを境に取次を行うようなる。

明治七年(1874)兄弟の熊吉と金光大神の広前へ参拝をしたとき「巳の年(熊吉)は手が器用であるから、手で名を揚げるまでおかげをいただけ」「酉の年(米造)は不器用であるから、おかげをうけて人を助けてやれ」とのお言葉が下がった。

兄熊吉は岡山の彫刻の名匠正阿弥勝義の弟子となり、号を左と称しその道で出世をした。米造は一心に神信心をすすめ本問金光大神と神号を授かり、参拝者の願いを取り次いで人を助けた。


その14.仁科志加編真冬の裸参り

天保十四年(1843)六月三十日、備中国小田郡絵師村で出生した仁科志加(にしなしか)は、十九歳の年に母親の病気平癒のために大谷の広前へと参る。

そこで金光大神から「神徳を授けてやる」と告げられ、そのとおりに母の病は平癒し、それから志加は、農業をしながら取次を行い難儀をして困っている人を助けていた。

母の病気平癒から五年後、慶応二年十二月二十四日の夜のこと。夫の松太郎の身体にとつぜん激痛が走り、そのときは治まったが、これを境に病床に伏してしまう。

翌年正月二日、志加は大谷の広前へ参詣して夫の病気平癒を願い、その日から日参をおこなった。

ある日、金光大神より「まことに一心とはえらいものであるが、その方はまだ一心が足らない。寅の年(夫)は二月八日、昼の丑(2時ごろ)か夜の丑かに、まことに一命が危ない。一心が足らぬと後で悔やむぞ」と告げられる。

それを機に、志加はいっそう神信心に打ち込むも、「まだ信心が足らない、二月八日が来るぞ」「一生懸命に信心しないと、取り返しのつかないことができる」と催促される。

自分としては、日々おこたらず神信心をしているのに、この上どうすればよいのか考えても分からず「どのようにしたら神様のおかげをいただけますか」とおたずねする。

それに対して、金光大神は「人に教えられてするような信心ではおかげを受けられない。自分の腹から練り出した信心でなければおかげにならない」と告げる。

そうして考えるも分からぬまま、とうとう二月七日を迎えた。この日も志加は大谷へ参拝し、夫の病気平癒を祈願するも金光大神は「卯の年(志加)、明日という日が絶体絶命である。神様に一心の届く信心はできないか」ときびしく迫られる。

「明日までに一心が届かなければ取返しのつかないことになる」

志加は帰りの道中、どうすれば神に一心が届くかを考えに考え抜いた末、ついに「裸参りをしよう」と思い立った。

裸参りとは、その当時大切な人が危篤になったとき、近隣の人々が病気平癒を願って裸で社寺へお参りする願掛けである。古来、神聖な場所に立ち入るときは、履物を脱ぐしきたりがあり、そこからさらに慎しみの意と願いの切実さを現わすために衣服を脱いで神参りをする風習へと転じたものと思われる。

母親に話すといったんは反対された。しかし、「一生連れそう夫のためなら、気が違ったといわれてもかまわない」と志加の意志は固かった。

ちょうど居合わせた夫の姉の斎藤理須も「私も弟のために」と共に裸参りをする決意をし、下女も「わが主のために」といい、分家の甥の浜蔵も「女ばかりで間違いがあってはいけないから私がついて行こう」と、結局四人で詣でることになった。

二月八日の早朝、真冬のなか裸になり、腰にまわしを締めて注連縄を張る。近くの厄神様で水をかぶって、道中はお祓いを上げながら大谷の広前へ駆け足で参った。

そのとき大谷の広前には足守の武士三人が参拝中であったが、志加一行を見てただ事ではないと思ったのであろう。横に避けて前へと譲ってくれた。

金光大神は「卯の年(志加)、今日は神に一心が届いた。寅の年の病気もさっそく全快をさしてつかわす。その方はまことに一心の定まる女である。今日までは夫と呼び、妻と呼んでいたが、寅の年に金子大明神、卯の年には金子明神の神号を許す。これより双方とも神であるぞ」と仰せられた。

帰り道、家の下の坂までいくと、病床から起きた夫が縁側まで出迎えてくれた。こうして、神さまの仰せの通りに、松太郎の病気は全快する。

後日、仁科夫婦の広前で神信心に励む百名余りの人を引き連れて、大谷の広前へお礼参りをする。志加が二十五歳、松太郎が三十八歳のときの出来事であった。


その15.難波幸編二年三カ月の神信心でぜんそくが治る

天保十三年(1842)十一月一日、備前の児島郡瀧村に生まれた難波幸(なんばこう)は、生まれつき体が弱く、ぜんそくの持病があった。両親は、娘に健康になって欲しいとの一念から、神社仏閣に参拝してお願いをした。

村内にある早瀧比咩神社、真言宗正蔵院はもちろん、由加にある由加神社や蓮台寺に参拝を重ね、児島四国巡拝もおこなった。児島四国巡拝とは、吉塔寺の円明が四国の八十八か所にならって、児島地域に開いた八十八か所の霊地で百四十キロほどの道のりである。

このお遍路巡拝を七度おこなうも、幸のぜんそくは一向によくならなかった。

安政四年(1857)、幸が十六歳の時。児島郡田ノ口村で魚の仲買商を家業とする難波音松と結婚し、二人の子どもに恵まれて幸せな暮らしをおくるも、明治九年の七月二日、夫の音松が脚気のため足がひどく腫れて歩行ができなくなる。

夫の魚の仲買商の仕事は、専門職であるため幸にはつとまらず、ましてや年老いた両親と幼子二人をかかえている身である。持病のぜんそくも相まって難波家はたちまち傾いた。

困り果てた幸を見かねた隣人は「備中大谷の金神様は霊験があらたかな神様じゃ。一度お参りをしてごらんなさい。きっとおかげが頂けるはず」と勧めてくれた。これに素直に従い、金光大神の元へ参拝する。

田ノ口から三十キロ離れた道のりを道を尋ねながらすすみ、やっとの想いで大谷の広前へと辿り着く。幸は持病のぜんそくと夫の脚気の平癒をお願いした。

金光大神は、「寅の年(難波幸)、今年命数の尽きる年なので覚悟せよ」と仰せになる。幸は驚きながらも自分が死ねば、幼い二人の娘はどうなろうかと思い、必死になって「どうか一命をお救いください」と押し願った。

すると神より「あれこれ心を惑わさずに、一心の心をもって三年間祈りつづければ、病根を断つことができる」との言葉が下がる。

また、音松の病気について「十五日、二十二日、二十八日がおかげ日である。おかげ日には神様がお立合いくださってご療治なさる。病状が悪かったら療治が激しいのであるから心配はいらぬ。病状が良ければ喜べ。今日は大谷へ道をたずねながら参ってきたが、やがて人に道を教えるようになる」と告げられる。

金光大神から教えられたとおり、音松は十五日に一時は悪くなるも、二十二日になると小便が二時間も通じて胸がすっとして身体が軽くなり、それから少しずつ快方へと向かい、八月一日にはむくみもすっかりなくなり全快した。

一方、幸のぜんそくはというと、一年半ものあいだ神信心に励むも一向によくなる気配がなく、ある日の参拝の道中にふっと「これほど参拝しているのだから、神様もおかげをくださってもいいはずなのに」と不足に思った。

大谷の広前へ到着し金光大神へお届けするや否や、「児島の氏子、神は参ってくれとは頼んでおらんぞよう」といつになく厳しい口調でとがめられる。

幸は参拝の途中に「おかげはまだか」と不足心がましく思ったのを詫び、心を改めて「私はこの病気と心中してもかまいません。どうぞ、この病が子や孫に出ませんように」と願ったところ、「その覚悟があればおかげ頂ける」とのお言葉が下がる。

それからしばらくして、幼い頃から悩まされ続けたぜんそくは完治した。「三年間祈りつづければ、病根を断つことができる」 と告げられた初参拝から、二年三カ月経った頃である。

生まれつき身体が弱く、ぜんそくに悩ませられ続けた幸であったが、神のおかげを受けて体は健康となり、九十七歳まで長生きをした。幸は金光大神の命により、田ノ口で取次をおこない人を助けるのであった。


その16.片岡次郎四郎編#1金神に興味をもった男

天保十一年(1840)八月五日、備前国上道群才崎村に生まれた片岡次郎四郎は、鎌倉時代初期の武将、片岡常春の子孫であり、才崎の村で農を家業としていた。片岡家は、勤労と倹約と質実を家訓とし、他人に厚く自己を薄くし、貧窮を救う家風から、村の人々から信頼を得た。

次郎四郎は、妻庄と結婚をして長男槌衛(つちえ)を授かったが、わずか四歳のときに病にかかる。医師に薬を求めるも病状はますます悪くなる一方であった。

日頃、片岡家に恩があった村里の人々は、西大寺の午王神に祈願をかけて裸参りをしたり、氏神にお千度参りをして祈る者もいた。祈祷者に頼めば、「これは金神の祟りなり」と告げられ、金神除けや金神封じを行うもその甲斐なく、つには長男は亡くなってしまう。

次郎四郎は、誠実な人柄でこれまで人に恨まれるような悪さをした覚えはなく、普請・作事(建築など)はもとより、何をするにも金神の所在する方位を犯さぬよう、いちいち方角から日柄、年回りはもちろん、家相や相性までも見ていた。

にもかかわらず息子は亡くなり、「金神さまの祟りじゃ」とか、「金神さまにご無礼ができとるから難がつよい」と噂され、どうにも合点がいかない。

「金神様と言うからには、神様に違いあるまいが、この神が本当にこの世にあるのなら、こうまで人を苦しめるはずがない。また、どこぞに金神の社というのが祀ってあるはずじゃ。是非とも参って納得できるまで話を聞いてみたものである」と思ったという。この次郎四郎の望みはすぐに叶う。

備前国上道群中井村で取次を行う大森うめに金神様よりお知らせが下がる。うめは才崎から参る石村某に「才崎に一人、金神に参りたいと思っている人がいる。その人に参るように教えてやるべし」と伝えた。

石村某は「それはきっと片岡の家である」と感じたという。それは、片岡次郎四郎の家は難がつよく、世間では、これを「金神のたたり」とか「気の毒だが、あの家は絶える」と噂が立っていたからである。かくして、次郎四郎は石村某にともなわれて、大森うめの広前に参った。

うめの元へ参った次郎四郎は、片岡家の代々の不運不吉、これまでの身の上の不幸を話したところ、

「私が神信心しだしたのも、難がつよかったからじゃが、ご信心しておかげを受けたから、あんたもご信心なさったら、祟りや障りは心配するには及ばん。おかげが受けられる」とさとし、次郎四郎はこれを境に一念発起するのであった。


その17.片岡次郎四郎編#2四十二歳の本厄

才崎の広前で取次を行う片岡次郎四郎は、毎月、十二里(約48キロ)はなれた大谷の広前へ歩いてお参りした。この月参りする日はあらかじめ金光大神に定められたが、その日に限って家の都合が悪かったり、道の途中でひどい腹痛に苦しんだり、必ずといっていいほど災難苦難があったがこれを修行として神徳を積んだ。

明治十四年一月九日、次郎四郎が四十二歳の大厄の年。いつものように大谷の広前へ月参りをしたところ、金光大神は、

「信心する者は、養生にも心がけよ。今年、その方は大厄であるからとりわけ神信心に励め、九死に一生を得るべし」と仰せられる。

次郎四郎は一段と信念をこらし、必ずこの厄難から救われるおかげを受けると、堅く決心をして祈願をこめた。

そうして春もようやく過ぎる頃、しだいに頭が重くなり、歩くのもよろめき、机に向かい筆をとって紙に字を書こうとするもたちまち目が眩んで後ろへ倒れる。

これは金光大神の仰せになった厄難の兆しと思い、心がけて養生をするが、猛暑が続く八月の下旬、とつぜん激しい腹痛にみまわれ全身が冷え、意識を失い危篤状態となった。

家族はおどろいて、広前の神棚の下に次郎四郎を寝かせ、神前に線香をたきながら皆で腹痛の平癒をひたすらに祈念し始めた。

すると、上方に立ちのぼるはずの線香の煙が下の方に流れ、一筋の白糸のようになって次郎四郎の寝ている布団の中に入っていく。

みな不思議に思いつつなお祈願を続けたところ、腹痛は次第に緩み、痛みも全く治まって回復した。くわえて、数カ月前から続いていた頭痛も快癒したのである。

九月二十三日に、金光大神のもとへ参ってお礼を申し上げたところ、

「才崎金光(片岡次郎四郎)、この度はその方の頭の上に香をたく(死ぬ)はずであったが、一心に取りすがりて命が助かり。仏道では『無常の風は時を嫌わず』というが、一心に信心して神に取りすがれば金光大神の道では散るはずの大難も助かる。六十の歳まで途中死にはさせない」と仰られた。

次郎四郎はこの四十二歳の大患でおかげを受けて以来、きわめて健康な体となり、十八年のあいだ広前で難儀な人の願いを取り次ぎ助けた。そして、金光大神の仰せになったとおり、六十歳の夏に神去りとなった。

その5.佐藤範雄編#1日本一の大工を夢見る男

安政三年(1856)八月六日、備後国安那郡上御領村(現広島)でうまれた佐藤範雄は、日本一の大工を目指していた。好奇心旺盛、勤勉家、行動力に満ち溢れており、十六歳で大工の見習いに入ってから、わずか二年で、棟梁として母屋や物置小屋を建てる。

範雄は一流の大工になるには、職人としての腕だけでなく学問が必要だと思いたち、仕事をしながら小学校に通い、「論語」「地理」「勧善訓蒙」「孟子」などを学んだという。

明治八年十二月二十五日に、範雄の家に土肥弥吉という男が風呂をかりにくる。当時は風呂のない家が多く、他家の湯を借りるのが一般であった。

弥吉は二年前からリュウマチを患い、足腰が立たないはずであったが、なぜかぴんぴんしている。

聞けば、妻に大谷の生神様のもとへ参ってもらい、そこで「今日から濡れ紙をはぐように治してやる」と言われた。その言葉を信じて朝な夕なに拝んでいたところ、五十日ほど経った朝に立ち上がれるようになり、それからだんだんと平癒したと語る。

「お宅も信心されるがよい。範雄さんは大工をしておられるが、この道では建築を行うときに方位・日・鬼門・金神の所在する方位を気にせず、自由に建築をさせてもらえます」と言う。

当時、方位の神「金神」は日によって移動し、金神のいる方角は凶とされ、もし、その方位に事を起こせば金神の怒りをかって死人が出たり悪い出来事が起きると恐れられていた。

また、三隣亡の日に建築を行えば、隣の家三軒にわたり不幸があると言われ、建築の際にはこうした方位や日柄を見るのが常識であった。それを自由にできるというのであるから範雄はおどろき興味をしめす。

「金神の留守を狙う考えではなく、あらかじめ『土地を使わせてもらいます』『材木を使わせいただきます』と神におことわりをして使えば、日柄や方位、家相の吉凶を気にしなくてよい」

五十日で大病を平癒させる霊験や天地全体が神という教えに魅力を感じた範雄は、「ぜひ大谷の広前へ連れて行ってくれ」と頼んだ。

そうして範雄は弥吉に案内してもらい上御領から大谷の広前まで、七里(28キロ)ほどの道のりを歩いて参る。広前に参ってあいさつを交わすと、金光大神は神前の祈念座についた。

しばらく祈念をしたのち、神前に向ったまま厳格な口調で、「辰の年、一心に信心せよ。大願成就させる。人を助ける身になれよ」と告げる。

あっけにとられた範雄であったが、一緒に参った弥吉に「これはご裁伝(ごさいでん)といい、神様からの直々のお言葉。めったにないことです」と教えられた。

範雄は大いに喜んだ。「大願成就といえば、かねてより左甚五郎のような日本一の大工になりたいという願いをもっていた。それが成就するとの意味であろう」と受け取ったのである。

しかし、これは勘違いであり、人を助ける取次者になれよという意味であった。そうとは気づかず範雄はこれを機に、力を入れて神信心をし毎月十日を参拝日と決めて、たびたび大谷へとお参りした。そして、しばらくして二度目のご裁伝がある。

「御領の氏子、大工という職は宮寺をも建てる尊い職ではあるが、その職人は世に多い。人を助ける者は少ない、大工をやめて神に一心になれ」

範雄は耳を疑った。日本一の大工になるため一心に神信心をしているのに、それをやめろと言われたのである。神さまからのお指図でも、さすがに言う事は聞けないと大工を続ける範雄であった。


その6.佐藤範雄編#2神様からの期待

金光大神より「大工をやめて人を助ける身になれよ」と告げられた範雄は、言う事を聞けずに大工職を続けていた。それから三カ月ほど過ぎた深夜のこと。

誰かが範雄の家の玄関の戸を激しく叩いた。範雄はこんな夜更けに何事だろうかと思い、ドスをきかせた声で「どなたか」とたずねる。

「張田池下の金助です、お願いがあります」と取り乱しながらの返事があった。入り口の止め木をはずして事情を聴くと、金助の妹の千代が腹をおさえて、のたうち回って苦しんでおり、薬をのませても治らず、このままでは死ぬかもしれないから拝んで欲しいとの頼みであった。

範雄は「金光様の手代わりになるかは分からないが、とにかくお願いしてみよう」と寝間着を着替えて、神前に灯明をともして拍手を打った。

「天地金乃神様、大谷の生神金光大神様のお手代わりとして、佐藤範雄がお願い申し上げます。この里に住む山本千代なる娘が腹痛で激しく苦しんでおります。どうか、親神様のご慈悲をもってお助け下さい」

と述べ、しばらく祈念したのち「安心せえ、もうおかげを受け取る」と口走った。金助はこの言葉に喜んだが、範雄は内心で神の威光を見せたいあまり、つい口がすべったと思い悔やんだ。

しかし、もう後には引けないので「さあ、早く帰ってみい」と言う。跳ねるようにして帰った金助は、すぐに引き返して「おっしゃる通り、おとなしく寝取りました。」とお礼を申した。

この噂が広まり、拝んでくれ、助けてくれという人が次々に訪れるようになった。大工で忙しい身の範雄は、お神酒を徳利に入れて持参し、来る人に飲ませたり、ご神米の包み紙に染みこませて持ち帰らせた。すると次々におかげで助かりましたと言って来る。

「これはただごとではない、いったいどうなっとるんだ」

こんなに簡単に人が助かるのなら、楽であると感心する一方で気味悪くも思った。金光大神のもとへ参り事のしだいを伝えると「神様が期待をしておられるのぢゃ」と告げられる。


その7.佐藤範雄編#3 大工をやめるきっかけ

金光大神より「神の言う通り、大工をやめて人を助ける身にならなければ、大工も立ち行かんようになる」と宣告された佐藤範雄であったが、大工仕事は評判もよく順調にすすむ。

「意志を強くすれば、神様も折れてくださる」と思い、相変わらず左甚五郎のような日本一の大工を目指すのであった。

そのまま二年が過ぎた明治十一年の秋、金光大神に「まだ神様の仰せが聞けぬか。すね腰が立たんようにならんと分らぬか」ときつい口調で詰め寄られる。

それでも範雄は「すね腰が立たぬとは、年老いてのこと」と都合よく解釈し、大工をやめる気はさらさらなかった。金光大神からはそれ以上、念を押されなかったが、範雄の身の上に奇妙な事が起こり始める。

明治十二年三月のこと。山中で大木を伐採し梁木を造っていたときに、腰をくじいてしまう。何とか背は伸ばせるが、かがもうとすると腰から背にかけて猛烈に痛む。顔をゆがめながらなんとか山を下りて、そろりそろりと家へ帰った。

神棚に向って手を合わせて、お助けを願うと「それは治してやるが、神の言う事を聞け」と心に浮かび、とっさに「仰せのままにします」と答えると、不思議と痛みが軽くなった。一週間で全快したが、肝心の約束はすっかり忘れてそのまま大工を続ける。

それから二カ月後の五月三十日のこと。高屋村の造り醤油屋「吉野家」で、大きな醤油槽をつくり、それを据え付けるためオノをふるって男木を女木にはめる切り合わせをしていた。その途中で、手元が狂い、刃渡り七寸(約21センチ)のオノを右足の指先に振り下ろしてしまった。

「やった!」

範雄は指が飛んだと思い、絶叫を上げたが、なんと親指の間に小さな木端が挟まっていて、ギリギリのところで刃が止まっていた。冷や汗がドッと吹き出る。

気を取り直して今度は滑車で男木を吊り上げようとする。止め木にしばってある綱を解いて、しっかり腰を構えて力強く引いた。すると途中まで上がっていた太い男木がグラリと落ちて、逆に範雄の方が吊り上げられてしまう。

幸い滑車に巻き込まれる寸前で、男木の方が先に地面に着いたので傷一つなく済んだ。もし滑車に巻き込まれていたら、指や骨が潰れていたところである。

醤油屋の主人は、たび重なる事故を不吉に思い、塩をまいて作業を中止させた。

範雄は、山中で腰をくじいた件や今日の事故は神のご忠告であったと悟り、これまでの心得違いを神に詫びて、大工をやめる決意する。するとすかさず「三十五日間は、これまでどおりに仕事をせよ」と心に響いた。

正直に言うと、神に逆らえばこの先どんな目にあうか分からないという恐怖心からの決断であった。


その8.佐藤範雄編#4病人の病を引き受ける「おもてがえ」

大工をやめる決意をし 「三十五日間は、これまでどおりに仕事をせよ」 との知らせを受けた佐藤範雄は、請け負っていた仕事をすべて終わらせ、大工道具を片付けて関係者へのあいさつ回りを行った。

そうして、人を助ける身になると決心した日から三十五日経った、明治十二年七月三日の夜中過ぎのこと。

範雄のとなりに住む森政サダノと近蔵が表戸を叩いた。話を聞くと長患いしているサダノの夫の禎治郎が、危篤の状態で危ないという。昨晩から四人の医者が来ていたが「もはや人力は尽くしました。御臨終だけは見届けて帰りたい」と諦めてしまったそうだ。

サダノはそれまで神仏に頭を下げたことがなかったが、「主人が助かるためになら」と思い、長い黒髪をバッサリ切り落として頼みに来た。財産の半分を献じるので、どうにか助けてほしいという。森政家は地域一の資産家である。

「サダノさん、金で人の命が助かるなら金持ちは死なん」
「それでは私の命と引き換えに、夫を助けてください」
「神様は一人の命を取って一人を助けるようなことはされんと思う」
「では、どうすれば助かりますのか?」
「うーん、それは…」

言葉に詰まった範雄を見て、サダノはやはり神にすがってもダメかと泣き崩れる。すると一緒に来ていた近蔵がどこから聞いたのか「まことに恐れ入りますが、範雄様に『おもてがえ』をお願いできませんか」と伺う。

「おもてがえ」とは病人に代わって取次者が大病を引き受ける助け方で、ごく一部の取次者が行ったと伝えられる。

いかんせん実例を知らない範雄は自分では判断しかねて、とりあえず神前で事の次第を報告した。生き死にはともかく朝まで祈ってあげようと心を定め、範雄とサダノと近蔵の三人は、ただひたすらに祈った。

祈念は何時間も続き、まもなく夜が明ける頃、とつぜん「おもてがえの件は承知した」と範雄の口を通して、御裁伝が下がった。たしかな手ごたえを得た範雄は「この身がどうなろうと後は神任せ」と覚悟を決める。

「朝の六時からおもてがえに入る。すぐに帰って病人を励ましてやれ」と神からの知らせをそのまま伝える。

範雄は、はじめて大谷の広前へ連れて行ってくれた土肥弥吉を呼び寄せて「いくら神に願っても、本人にその気がなければならん。森政の家に行って、神信心の話をしてやってほしい」と頼み、自らは六時から再び祈念の座についた。

弥吉が柏餅とスモモを用意し森政の家に向うと、禎治郎は起き上がって湯呑を持っていた。

「具合はいかがか?」とたずねると「六時頃から気分がようなってなあ」という。聞けば、臨終を見届けると言った医者たちは、急によくなったので体面が悪くなり帰ってしまったという。

「これは、ほんのお見舞いのしるしです」といって柏餅とスモモをサダノに差し出すと、禎治郎が横から「どれどれ」といってぱくぱく食べ始め、続いて鶏肉までも食べだした。それまで湯水も通らなかった病人が急に食べ始めたのだから、一同は驚いた。

一方、おもてがえを行った範雄はというと、梅雨の蒸し暑い朝にもかかわらず、悪寒がはしり、それから六日のあいだ発熱が続く。もともと体が弱かった範雄はひどく衰弱した。

そうして、森政禎治郎の病気は平癒したが、範雄は金光大神に「人間は死ぬものである。命よりも、心を助けてやらねばならぬ。おもてがえは、これきりにせよ」と強く戒められたのであった。


その18.斎藤重右衛門#1妻の血の道の快癒

文政六年(1823)備中国小田郡笠岡村宮地に生まれた斎藤重右衛門は生来、芯が強く曲がったことが大嫌い、負けん気強く、困っている人がいると放っておけない正直者であった。

文久元年三月、重右衛門が四国巡拝から帰ると、妻のツジが産後の地の道(婦人病)で床についていた。重右衛門は医薬をためすもさっぱり効き目がない。病はおもくなるばかりで、人の声さえも気に障るようになり、見舞いに来る人も断った。

三人の医師をつけたが「できるだけのことはしてみたが、もう、私の手にはおえぬ。どうか適当に方法を考えてもらいたい」と見放されてしまう。

重右衛門が「もうこれ以上はどうしようもない、どうしたものか」と思案していると妻が「最後にたった一つ、ご無理なお願いがあります。この頃、大谷の金神さまが栄えており、ご利益が多いと聞いております。一度そこへ参詣して、お願いしてみてくださいませんか」

重右衛門は生来、ひとに頭を下げるのが大嫌いな性分であったが、しぶしぶ大谷の金光大神の広前へ参った。しかし、参ったけれど中に入りづらい。そっと戸口から中をのぞいてみると金光大神が二人の男に説諭しており、重右衛門はそれをひそかに聞いた。

「…とかく神信心は誠の心で、親に孝行、人には実意丁寧に、家業を大切に神仏を粗末にせぬように。たとえ小神たりとも、災いは下からということがあるから、いずれの神仏も粗末にしてはなりませぬ」

「そうじゃ、そうじゃ、道理。これこそ神様の言葉である」重右衛門は腹の底に、五寸釘を打ち込まれるような思いで話をきいた。

ついに広前へ入り金光大神の前で妻の病気について話をし、祈念を願ったところ金光大神は「三日の間におかげがあれば、全快になろうが、それまでにおかげがなければ、むずかしい。いかに神が助けてやろうと思うても、この病人は根と精がつきておる。根と精がつきたものは神の力にも及ばぬ」と言われた。

家に帰り妻に話すと非常によろこび寝につき、翌朝、妻の体に変化があったという。「毎晩、寝汗が出て困るのに、昨晩はどうしたことか、寝汗がちっともでなんだ」重右衛門はこれこそ金神様のおかげと思い金光大神の広前へと飛んで参った。

金光大神は「少しでも宜しいといえば、神の験(しるし)にちがいない。神の験とは、商売人が取引をするときの入金のようなものである。本気で願えばそれだけの験がある。一心に信心をせい」と理解した。

それから妻ツジの病は薄紙をはぐように日増しに快方へむかった。ざっと四十日後には茶碗に一膳くらいの食事ができるようになり、やがて全快した。


その19.斎藤重右衛門#2松葉杖のお供え

昭和26年4月18日、安福ツネ(78)が話すには、大山啓太郎という弟がいたが、18歳のときに骨膜炎にかかり、長年足が立たなかった。安福ツネの父は、笠岡の広前の霊験あらたかな噂を耳にし、息子の病気平癒を願ってお参りしたという。

広前へ参ると斎藤重右衛門は「これは本人に神信心がないからだ、本人が神に信心をせねば治らぬ」といった。父が帰って話しを伝えると、啓太郎も参る気になって松葉杖をもって参った。井原川の口まで進むと、みんなが「歩けはすまい、諦めるがよい」といったが、本人の意思は固い。

蛸村越しの中腹まできたとき、小便をもよおしたのでしてみると血膿が出た。それと同時に心身ともに爽快になり、片方の松葉杖を捨てて、やすみやすみ参った。

ようやく 笠岡の広前へ着くと斎藤重右衛門が待っており「大山か、ようきたのう。お前は途中で小便をせなんだか。小便をしたら、気持ちがようなったろうが。そして松葉杖を捨てたろうが。わしの祈念にこたえがあった」と事のしだいをすでに知っておりたいへん喜ばれた。おかげを受けた啓太郎は、もう片方の松葉杖を神さまへと供えて自分の足で帰った。


その20.藤井吉兵衛編山伏との祈念対決

天保五年(1834)三月十五日、備後国沼隈郡柳津村に生まれた藤井吉兵衛は、父母の信心深いあいだに育てられ温厚な性格であったという。後に、尾道の先代藤井吉兵衛、藤井タミの養子となって父の名を継ぐ。養子に入った家の屋号を北国屋といい、代々北国から送られてくる米柄の仲買を業としていた。

吉兵衛は長年の胃腸病に悩まされており、妻トメのすすめにより慶応三年四月十日、笠岡の斎藤重右衛門の広前へ参拝をする。

吉兵衛がお参りをすると、重右衛門は他の参拝者に神信心の話をしており、それをかたわらで聞いていたが、その教えに心をうたれ翻然として悟るところがあったという。

同月二十三日に笠岡の広前に参り、夜中通しで祈念をこらし、長年の難病がそのときをかぎりに平癒したのであった。

それ以来、笠岡の広前へたびたび参拝し、重右衛門の直弟子として神信心を進めた、明治四年に大谷の広前へまいったおりに金光大神より「この道のためにますます努力せよ」との言葉をいただく。

吉兵衛は山口を巡回して、金光大神の道を伝え、難病の人らの願いを取次ぎ人助けをしていた。あるとき弟子の唐樋常蔵と玖珂郡愛宕村門前にでむいたとき、突如として五人の山伏が行く手に立ちはだかった。

「なんじ、きつねたぬきを使い、村民を誘惑することその罪許すべからず。われらの祈りて、なんじが使役するきつねたぬき妖怪を、たちどころに退治すべし」と声をあげる。

吉兵衛らは、言い返さず静かにしていたが罵詈雑言は次々に飛び交い、止まりそうになかった。やむを得ず応戦の意を決する。

「よし、それならば余もまたおおいに祈らん、余とあなたたちと祈念力いづれが強いか試すべし」と吉兵衛と常蔵が声を上げた。対して山伏らは、錫杖を打ち振り、呪文やお経を唱えはじめる。

吉兵衛と常蔵はただ物静かに神を念じたところ、山伏のもっていた錫杖の柄が折れ、金輪が外れ飛び散り、ついには山伏も閉口し退散した。


その21.西城種吉編#155歳の初のお産

天保十三年(1842)一月十一日、大阪瀬戸物町にうまれた西城種吉(さいきたねきち)は、備後の尾道に移住し「甲辰(こおたつ)」という屋号で、金、銀、珊瑚物を取りあつかう小間物商を営んでいた。

明治元年、種吉は大阪のウメと結婚をするも、なかなか子供に恵まれない。そのとき知人から金光大神の道の話を聞いて、明治三年、尾道久町にある三宅小一郎の広前へ参ることになった。

種吉は生来、人の話を聞いて善いと思えばすぐに実行し、悪いとしれば直ちに改める誠実真摯な人柄であっため、道の教えを聞いて得心し、神信心をはじめるのであった。

種吉はお店を構えての商売だけにとどまらず、年に四、五回は山口、下関、長崎、熊本に行って取り引きをした。神を拝むようになってから、この行商の途中、病人や悩んでいる人に金光大神の道を伝え祈念をする。おかげが著しいので多くの人が訪ねてきたという。

あるとき、大谷への広前に参ったとき金光四神より、御神米を百体を授かるとともに「旅先にて人を助けよ」との神命を受ける。

それから下関に行けば人はますます助かるようになり、訪ねて来る人も日に日に増し、ついには「この地にとどまってもらいたい」と懇願され、小間物商の家業を廃して下関に広前を開いた。

こうして、人を助ける取次者の身となった種吉であったが、初めに願い届けた「子どもが欲しい」という願いは成就しなかった。

ところが、はじめての参拝から二十年が経った明治二十三年、長男重雄が産まれる。このとき種吉は49歳、ウメは55歳の初産であった。子供が出来ないのがきっかけで金光大神の道にはいった夫婦であったが、じつに二十年を経て願いが叶えられたのである。


その22.西城種吉編#2親の死に目に会えるおかげ

尾道に住む西城種吉は金、銀、珊瑚物などの小間物を、年に四、五回、山口、下関、長崎、熊本に訪れて取り引きをしていた。

明治二十年のときのこと。種吉はいつものように商用で長崎に滞在していたところに、「父が危篤」という電報を受ける。当時は現代ほどの交通手段がととのっておらず、長崎から尾道に帰るには、船で十日余りかかる。

翼があれば飛んでいきたいところであるが、どうするわけにもいかず、ただ一心に寿命延命を祈りつつ、昼夜を通して帰途を急いだ。すると普通ならば海路で十日かかるところを、わずか三日で尾道に帰りつけた。

種吉が「ただいま帰りました」と病床のお父様に帰宅を告げると、父はおだやかな顔つきでうれしそうに、「よう帰ったのう」といわれたのを最後にしずかに瞑目された。

居合わせた者は、この奇しくも尊い親子最後の対面におどろき、何とも申せぬ深い感動を受けたという。

妻ウメは「父上の病状が悪くなったので、主人種吉の帰宅まで寿命を延ばしてくださいませと祈願し続けた」と種吉に告げると、「これは神のお計らいを頂いたのである」とその御神威に打たれて感泣したという。


その23.久保ハナ編#112年立たなかった足

明治十四年頃、上関村長島四代に住む三十七歳の久保ハナは、腸満の病(腸がふくれあがる病気)にかかり十二年ものあいだ、腰が立たなかった。ある日、行商でおとずれた西城種吉に金光大神の道の話を聞く。それから約四か月後の明治十五年の元日にハナは夢を見る。

一枚しかない障子がからりと引きあけられて家に誰かが入ってきた。ハナが「どなたですか」とたずねると「備中大谷の金光ぞよ。その方、厳島明神にご信心しておるが、手に余るからとの明神の願い出によって来たのぞ」と申される。ハナが「はい」と答えて頭をあげると、目の前は、火事かと思われるほどに一面が真っ赤になっていた。

ハナは驚いて飛び起きて、夫を起こしてその夢の話をすると、夫もまた同じ夢を見たというのである。これは不思議とつぶやきながらハナはふたたび眠りについたが、同じような夢を続けて三度も見た。

午前三時頃、時を告げる鶏の声で目を覚ましたハナ、元日なのでかねてからお祀りしている厳島神社様に燈明を供えて、線香を立て、元日のお礼を申しあげた。

雑煮をつくり貧しいながらも夫と二人で祝い膳をいただいていると、突如ハナの全身が身震いを始めた。そして、ハナの口から「いざ、金光大神、足をたたしてやるぞ」と声がでて、気も狂わんばかりに立ち上がった。

それを見た夫は「あぶない!」と制したが、ハナはお構いなく立ち上がって歩を踏みすすめた。こうして、十二年のあいだ立たなかった腰が一瞬にしておかげを受けたのである。


その24.久保ハナ編#2参拝の道は神が教えてやる

十二年立たなかった腰が一日にして治るおかげをいただいた久保ハナは、金光大神の広前へお礼参りをしたいと想いを馳せた。

明治十七年のある日の早朝に、「今日は、備中大谷に参拝さしてやるぞ。途々(みちみち)は神が教えてやるから、安心して船で立て」とハナの口を通して神のお知らせがあった。そこで、ハナ夫婦は船を借りて、夫の善次郎が舵をとって四代の港を出発した。

ハナは船の先端にたち、神にお伺いを立てながら、一々指図を受けて船をすすめる。難所と言われる瀬をいくつも乗り切り、何日かして「あの磯につけて上陸せよ。ここから一里あまりじゃ。大谷と尋ねて参れ」と神のお知らせがあった。

そこから、神のお指図のまま人にたずねながら金光大神の広前へ参拝すると、お広前には二代金光様の金光四神(こんこうしじん)がお座りになられていた。「昨年参られたら、金光様(金光大神)がご存命でありました」と言われ、いろいろと神信心の手ほどきを受けた。


その25.久保ハナ編#3西国の生神と称された人

金光大神の道に入り、神信心をすすめ取次をおこなう久保ハナは「西国の生神」「西に於いては神徳第一」と称えられるほど、広大なおかげを次々と現した。ここでは幾つかのおかげ話を記載する。


上関村長島四代の松岡粂蔵は、ある日、眼がパチッといったかと思うと目の玉が飛び出していた。そのとき、ハナは「心配せんでもよい。明日の十二時が来たら、いつの間にやら元の眼になる」と言われ、そのとおり元に戻り見えるようになっていた。


明治二十年九月三日、四代の松中家に赤ん坊が誕生したが、名前もつけていない時に死んでしまった。家族の者が、寺に頼みに行こうとすると、ハナがきて、「かわいそうなから、助けてやる」といわれ、亡くなった赤ん坊に御神酒を吹きかけて祈念をすると、赤ん坊は生き返る。ハナはこの子に末のよいようにという意味を込めて末吉(すえきち)と名付け、末吉はそれから一生神信心をつづけて、昭和四十九年に八十八歳に亡くなった。


四代の浜崎サトは四歳のときに目の病にかかって失明した。サトが両親に連れられ広前に参ると、ハナが祈念の後「おサト、われの目は見えないけれど、不自由のないおかげを受けい」と言う。その後、神信心を続けるうちに、自分で針に糸を通して着物を縫い、杖を持たずに歩け、どこの家に行っても戸口から間違いなく入れるようになった。


のちに宿井の広前で取次をおこなうようになる山田重忠はもともと観音様を信仰していた。あるとき内山と言う人が度々来て、「才賀の人で、女のお先生であるが、有難い神様を拝まれ、あらたかなおかげのある人がいるので、是非とも参りなさい」と勧められる。

しかし、その幾度「わしは女の尻は拝まぬ」と言って断っていた。それでも内山が「どうしても参れ」と言うので、根負けして二人連れで参ることになった。

明治二十七年四月三日、重忠が広前の戸口にはいったところ、ハナは「こんな疑い深い、性根の悪い者は、拝んでやらん。人を三人も殺しておる」といい、裏口から外へ出てしまった。

それを聞いた重忠は「誰が拝んでもらうか」と、かんかんに怒って帰った。しかし、よくよく考えてみると初対面なのに、自分が「疑い深い」とか、「人を三人も殺しておる」とよく知っておられる。確かに自分は騎兵隊に出ている時に三人を殺した。なぜそこまで知れるのであろうか。

重忠は一心になって参る決意をかため、それまで拝んでいた観音様を人にあげて、改めてハナの広前に参った。

重忠が広前の戸口に入ると、ハナは「人間も変われば、変わるものじゃのう。今度はきれいな心になって来た」と言う。重忠はハナより神信心の話を聞いて、身の上のおかげを受けた。

その他には、フルイ病で八年苦しんでいた人が全快する、原の持病で十二年苦しんでいた人が全快する、ライ病(ハンセン病)で九年間苦しんでいた人が全快する、眼病で盲目になっていた人が晴眼する、足が立たなかった人が歩きはじめる、十三年つづいた喘息が全快するなど数々のあらたかな霊験が語り継がれて記録として残されている。


その26.唐樋常蔵編#1追い風のお繰り合わせ

文政十年(1827)十月十日、玖珂郡由宇村にうまれた唐樋常蔵は、船での物資輸送を家業としていた。

「板子一枚下は地獄」というように、当時の船乗り稼業はいつ風しけ難で命を落とすか分からないため、おのづから信仰心が強かったという。

明治二年の春、常蔵がレンコンを積んで尾道港へはいったところ、他のレンコン船がたくさん入っておりなかなか買い手がつかなかった。そのときに尾道本町上工事の栗好という青物問屋に、備中大谷に生神がいると聞く。

特に願いはないが参詣してみようと思い立ち、船を沙美へ回してはじめて金光大神の広前へも参った。

金光大神は着くや否や、「よくお参りなされた。沙美に船があるのなら、今夜は通夜をせよ。今晩はここにおれ」という。

「わたしはすぐに帰ろうと思います」と常蔵が言うと、金光大神は重ねて「明日の朝出発しても、いまから出発して帰るのよりは早く帰りつく。決して遅くはならない。帰り着いた速さをみてみよ」と言われるのであった。

常蔵は素直にその言葉に従い、神前からお下げになったミカンをいただき、広前で一夜をすごした。

そのとき金光大神から「その方は周防国の本宮なるぞ、疾病患難すべて諸々の難を救い、道を開き、諸人を助けよ」との言葉を頂く。

翌日、その言葉をありがたく思いながら船へと向かう。沙美へと出て帆をあげると、追い風で櫓も使わず、船は滑るように海を走る。船の進路にそって風はいつも追い風となり、前の晩に発つよりも早く由宇へと着いた。

以来、常蔵は尾道へレンコンを運ぶたびに足を伸ばして、金光大神の広前へ詣でて、話を聞くのを楽しみにするようになった。


その27.唐樋常蔵編#2夫婦円満の秘訣

周防の唐樋常蔵の妻は、相当なヤンチャ者で酒好きの女性であった。二人の間に子どもはなかったが、それでも常蔵は、「いとしい者ぢゃ」と思って長年連れ添った。常蔵と妻が二人で船に乗っていると、人はその仲の良いのを見て「夫婦丸、夫婦丸(ととかまる)」と呼んだという。

「連れ添うておればこそ妻であるが、別れて見れば人の大切な娘であり、神の可愛い氏子である。その氏子に手を当てられぬと思えば腹を立てるどころではない。少しずつでも仕事を手伝ってくれるのがありがたいと思っておりました」

この頃は現代と違い女卑のはげしい時代であったが、常蔵は金光大神から授かった教え、「理屈あっても全て言うな、理屈とくさびは八合目、詰める紙袋は破ける、あいよかけよで世は治まるぞ」を心の守りとして、放蕩する妻に指一本も当てずに大事にして家を治めたという。

尾道のとある問屋に常蔵がレンコンを積んで運んでいた時の話。その問屋の主人は妾(愛人)のもとへ毎夜あそびに出かけ、家に帰るのはいつも夜明け前である。それで奥さんはひどく心を傷めており、家内に波風が起こっていた。

そのせいで商売もうまくいっていないので、常蔵は見かねて金光大神の教えを話して聞かせる。地位を比べれば向こうの奥さんは問屋の妻、常蔵は小舟の船頭であるから話を聞いてもらえないはずだが、常蔵の家を手本として教えを説いた。

それからというもの、奥さんは亭主が家に帰るまで夜が明けても起きて待ち、火鉢には鉄瓶をかけてお酒を出せるように準備をして、酒の肴を一つ二つこしらえて待つ。

はじめのうちはそれを気に入らない主人であったが、常蔵が道の教えを説き聞かせるのも相まって、月日のたつうちに心は円くなり、夫の方から奥さんに詫びて妾と別れた。

そこで奥さんは自ら妾の宅にいって姉妹の契りを結び、杯を取り交わす。さらにはその妾を自分の妹として相応なる仕立てを整えて、ある家へと嫁入りをさせるのであった。

妻の心変わりをした様を見て主人は陰で両手を合わせて、わが妻ながら神の氏子と思って拝んだという。仲睦ましく円満に暮らすようになると、しだいに商売の方もうまくいき店も繁盛した。

夫婦の不和が原因で傾きかけた家であったが、常蔵の教導により、家も栄え家族も助かり子々孫々につづくべき基礎が築かれるのであった。


その28.唐樋常蔵編#3まことの海上安全

重住楽太は、桂松平の仲立ちにより、山口東部の由宇で取次にあたる唐樋常蔵の元へ養子入りをした。明治二十七年、由宇の信奉者らと、久保ハナの一団とともに大谷の広前へと参詣する。

神徳家として名の知れた久保ハナは、船に乗り込むとすぐに、「これ船頭さん、この船はお前さんの船かえ」と問うた。船頭が「ハイ、わたくしの船であります」と答えると、「名義はあなたでも金はまだ済まずに居る、船霊さんの機嫌が悪いから、船のゆき足が遅い」という。

船頭は「おっしゃるとおり登記は済みましたが、実は金が済まずにおります」と返した。この一連のやりとりを見た楽太は、ハナの神徳が高いと悟った。

一行を乗せた船が出帆して二日目のこと。深い霧につつまれて一寸先が見えなくなる。

船頭が「唐樋の二代目、これでは船が危険ですから神様にお願いしてくだされい」と頼み、楽太がすぐにお願いをすると「船止めい」と知らせが下がり、そのまま「船頭、船を止めい」と叫ぶ。指令に従い船頭はすぐに船を止めた。

やがて霧が晴れて見てみると、船は小島のすぐ側まで来ており、今にも岩石に乗り上げるところであった。

それから幾日かけて沙美の浜辺に着き、無事に大谷の広前へ参れた。一行は宿で一泊し、翌日、船で帰途につく。

はじめのうちは何事もなく海路をすすめたが、途中、音戸の瀬戸を越えたあたりから大風雨となり、船は空に舞い上がるように、また海底に沈むように揺れて、生きて帰れる心地がしなかった。

船頭は、「金光様へお願いして助けてくだされい、船はもうもてませぬぞ」と叫んだ。楽太も最早これまでと決心をして心静かにしていたとき、ハナに神命が下がる。
「唐樋の氏子(楽太)とその方(ハナ)が乗っているうちは死なせぬ、心配すな、綱も伝馬船も早く切り捨てい」

「船頭、綱と伝馬船を早く切り捨てい」とハナが叫ぶ。
「両側に七十ひろ程ひかせているのを切り捨てたら船はたちまち転覆しますぞ、伝馬船は今切り捨てました」
「綱も切れと言うたら切り捨てえ、船が破れて皆が死んでもいいのか」
「今、綱を切りましたぞ」

船はいよいよ荒狂う波のうえを千鳥の飛ぶがごとく走り、浮き沈みしながら、命からがら港口までながれつき、しばらくして港内に入った。このときの嬉しさ、有難さは何ともたとえ様がなかったという。

楽太は由宇の広前が気にかかり、雨風が吹き乱れるなか唐樋常蔵の元へ帰る。広前へたどり着くと、屋根は風で半分ほど吹き飛んでおり、常蔵は頭から雨に濡れながら、楽太一行が無事帰れるように祈念しているところであった。

常蔵は、「広大なおかげを受けられたのが、九死に一生を得たのぢゃ、わしは広前の屋根は飛んでも、お前たちを死なせまいと思うて今日は朝から金光さまへお願いしておった、はやくお礼を申されい」といい、楽太は涙しながら礼を神に申し上げるのであった。

この台風は強く、海上安全の神へお参りしていた船が七隻も難破したという噂がたつほどであった。しかし、楽太一行を乗せた船は諸道具ひとつ紛失せず、伝馬船や櫓も舵にいたるまで、翌日浜辺にうちあがっていたという。

楽太は唐樋常蔵と久保ハナの祈念がなければ、一行もろとも溺死を免れなかったと悟り「受けるべきものは神徳、もつべきものは真心」と感泣した。


その29.唐樋常蔵編#4死人が息を吹き返す

あるとき、由宇の広前で取次をおこなう唐樋常蔵のもとに、一人の婦人が参詣して願いごとを申し上げた。

「お先生、お恥ずかしいですが、私は重い梅毒症にかかっており大変な難儀を致しております。なにとぞお助けくださいませ」

常蔵はさっそく、「七日間でおかげを受けるように願え」といって願い事を取り次いだ。

その後、その夫人が再び参詣して、「お先生、私の信心が足りないゆえ、まだ全快致しませんから、もう一度お願いくださいませんか」と押して頼む。

常蔵は梅毒症で苦しむ婦人を不憫に思い、「今度はたちどころに癒してやるぞ」と再び願いを取り次ぐと、その日を境に、婦人の身体は健康となってよろこび勇んで帰っていった。

一方、病気の願いを取り次いだ常蔵に梅毒のような症状が出始める。はじめは熱が出て、次に体中に小さな腫物があらわれ、ついにはころっと亡くなってしまった。

常蔵の帰幽の知らせを受けて、親族縁者や常蔵を慕う者らが集まる。葬儀の準備がすすめられ、遺体をしずかに棺に納めようとしたそのとき、死んだはずの常蔵の両眼がパッと見開らく。

「やぁ、皆さまご苦労でありました」とあいさつを交わし、棺の中から這い出て、装束を着たまま事の次第を話出した。

「私は昨日から金光大神のお膝元にまいりました。金光様が申すに『その方はここへ来るのは少し早いから、三年間、現世に帰って人を助けてこい、道を知らぬなら教えてやる』と仰せになって、笏で私の胸あたりをポンっとお突き下され、私は帰ってきたのです」

その後、唐樋常蔵は壮健になり、仰せどおり三年のあいだ世のため人の為に身をつくし、明治三十二年二月十五日に現世の務めをなし終えてお国替えとなった。


その30.桂松平編#1代々つづく胃癌の取り払い

安政二年(1855)十二月四日、周防国苦玖珂郡柳井津村亀岡で桂松平(かつらまつへい)は生まれた。桂の家は、代々材木問屋を営み、領主毛利公のご用達の掛屋(江戸時代、幕府・諸藩の公金出納を扱った商人)でもあった。

何不自由ない恵まれた暮らしであったが、松平が14歳の年に父勘助がカクの病にかかり息を引き取る。カクの病とは胃がんのことで「桂の家は代々、カクの病によって死ぬ」という言い伝えがあった。松平の祖父の儀助もカクの病でなくなっている。

こうして松平はわずか14歳にして掛屋の跡を継ぐも、長州一揆のあとの藩政改革のあおりをうけ、勘助の代でかげりが見え始めていた掛屋を維持するのは難しかった。お得意先も離れ、商いの規模は縮小し、すぐに手の施しようがなくなってしまう。

松平は、屋敷を整理して残った金で母とタバコ卸商に転職をする。ささやかな店構えであったが、親子身を粉にして働きぼつぼつと客が増え始めた。

このとき金光大神の神信心をする明田角太郎と出会う。角太郎はたびたび、店に出入りをして金光大神の話をする。

「金光様は、『家のめぐり、身のめぐりのために難儀をしている人が多い。若い者が神信心をすれば四十までにめぐりを取り払ってやる』と仰せになりました」

はじめのうちこそ、話の長い角太郎をわずらわしく思ったが、「めぐり」という言葉に妙に心がひかれた。代々続くカクの病、老舗の掛屋の没落が頭をよぎったのである。

しかし、桂家は先祖代々、金毘羅さまを厚く信仰しており、名を聞かぬきつねともたぬきとも得体の知れない神を信仰するのはいかがなものかと疑念が浮かんだ。それでも明田角太郎の言葉が気になり、松平は金比羅さまへお伺いをしようと意を決する。井戸端で身を清め、金毘羅さまの前にぬかづき、心を静めて筒みくじをガラガラと振った。

「なむ象頭山金比羅大権現、今より占いに問いまつることを、このみくじに神がかりくださって告げ知らせてください。明田角太郎の信ずる金光大神が真の神ならば、十回が十回とも『丁』の数でお示しください。十回のうち、一回でも『半』が出ましたなら、邪神と信じ、今後、心にも留めません」

さっと小さなだし穴から細い棒を取り出すと「丁」である。松平はみくじを続けた。一回一回が真剣である。結果は十回が十回とも「丁」であった。松平は驚きながらも、まだ信じ難い気持ちもあって、さらに三度続けて試みると全て「丁」が出る。

「これほどご神徳の高い神をキツネ、タヌキとも得体の知れないなどと申し上げたご無礼をお許しください。これより心を定めて一新に神信心させていただきます」

松平は、ひれ伏して詫び、誓うのであった。松平は翌日から、めぐりの取り払いを頂くべく、一生懸命に天地金乃神へと願うのであった。

しかし、どういうことであろうか、松平と母は共に病になり、医者に見せるとカクの病の兆候があると告げられる。病床から必死に願うも日を追うごとに病は悪化し、ついに死を意識するまでになった。

「一生懸命に信心していながら、なぜ一番恐れる難に襲われなければならないのか」、松平は見舞いに参った角太郎に愚痴をこぼす。

角太郎は、すかさずきびしい口調で、「神信心は神がさせてくださるのじゃ。桂の家を助けてやろうという神の御心である。今こそ、めぐりのお取り払いのおかげをこうむるときである。これくらいのことでグラつくようではおかげは受けられない。医師がなんと言おうと、神は何もかもご存知である」

一喝した後、角太郎は松平親子のために神前にぬかづき、神に祈る。やがて、角太郎の口から「今日から一段と信心せよ。母は五十日、子は三十日の日を切り、おかげをこうむるがよい」と威厳に満ちた声が出る。

それから一心を定めて神信心をし、一日、また一日と薄紙をはがように病は快方に向かい、ついには親子とも全快のおかげを受けた。

後日、大谷の金光大神の広前へ参拝をしたとき、金光大神はやさしい言葉で「周防の国の氏子、きつねじゃろうか、たぬきじゃろうかと思うた疑いが晴れて結構ですなあ」と語り掛けられる。

松平は、はじめに疑念を抱いたのをハッと思い出し、千里見通しのご神徳に驚くばかりであった。


その31.桂松平編#2人助けをして職を失う

商売に失敗した桂松平は、甥の桂利三郎が営む店の店員となり、山口県周防から海路をわたり大分県の各地を行商する身となっていた。

明治十七年(1884)の旧のお盆のことであった。松平は、九州路の得意先へ注文取りをかねて、半年の集金に出かけた。途中、ある商店へ足を運んだところ、店主の元気がなく寂れている。

話を聞けば、店は倒産寸前のうえ、母親につづき妻と子も亡くなったと言う。注文を取るどころか、売掛金の請求も気が引ける。代々つづいた木材問屋を自分の代でたたんだ松平には、とても人ごとに思えなかった。

松平は、回収する予定の売掛金を帳消しにして店主を励ましたが、これが後の大問題につながる。

松平は周防に帰り、主人の利三郎に帳面と金額をさし出すも金額が合わない。事のしだいを話し始めると、主人は烈火のごとく怒りだした。

「馬鹿者めが、商売人が得意先から泣きを入れられるたびに棒を引いていたら、商売が成り立つか。馬鹿もほどほどにせよ。払う金がなければ、あるだけの品物を引き取り、不足の分は証文をいれさせて帰るのが当たり前。勝手に棒を引くとは何事か、馬鹿も休み休み言え。お前が善人ぶってそんなことをするから、いい年して一人の親も満足に養い切らず、貧乏して一人前になれないのだ。貴様のようなやつはこの店には必要ない」

さんざん罵られ、ついには店から叩き出されてしまう。松平は道の上に這いつくばったまま、しばらく身動きがとれなかった。痛む体を起こしてチリをはたいて母の元へ帰った。

「母にどれだけ苦労させればすむのであろうか」
この上は、今一度大谷に参拝して、金光四神様に最後のお礼を申し上げ、母の行く末をお願いし、帰り道に周防灘で割腹して身を投げようと思い定める。松平は、柳行李に短刀をしのばせて大谷へ出発した。

広前でぬかづくと金光四神様はにこやかに迎えてくれる。松平が涙を流しながら、
「金光さま、松平はこのたび、ちと遠方に旅立つことになりました」
と申し上げると金光四神様はつっと立ち上がり、奥へ入り一つの封筒をもってきて松平にさし出した。表には「金子在中」と書かれている。

「桂さん、これで目の上のハエを追いなされ。柳行李の中のモノは帰り道で周防灘に捨てなされよ」
松平は言葉なく、ただただ御前にひれ伏すばかりであった。

宿屋に入りおそるおそる封筒を開くと、なかには、売掛金の総額である金子百三十円がぴったり入っている。松平は再び、広前へまいり、涙ながらにお礼を申した。

帰国したのち、売掛金を大急ぎで集金してきたように利三郎に手渡した。それで主人も松平を許し、また元のとおり店で働けるようになった。


その32.桂松平編#3ご神体が身代わりに

明治二十二年(1889)四月、桂松平は金光四神より九州小倉に道を伝えるべく、津島庄次郎の敷地の裏二階の六畳と四畳の二間をお広前にして、参り来る人々を祈っていた。

庄次郎は、松平が山口から九州に行商にでていた時期に出会った人で、松平の話を聞いて金神様を信仰していた。乾物商を営み、小倉に所在する朝廷に属する正規の軍「歩兵第十四連隊員」に物資をおさめる御用商人でもあった。

松平が庄次郎の敷地に移って二カ月目、六月のある日のこと。番頭が鳥越軍曹に注文伝票を受け取りに出かける。このとき、庄次郎の長男の勘兵衛もついて行った。

鳥越軍曹は射撃訓練に出て留守にしていたので、番頭は番兵とよもやま話に花を咲かす。長男勘次郎は控えの兵隊と遊んでいたところ、鳥越軍曹が射撃訓練を終えて帰ってきた。

十歳の勘兵衛は、鳥越軍曹になついており、いたずら心で「やあ、鳥追い軍曹が帰ってきたあ」といつものように手を打ってはやしたてる。

「こやつ、俺の顔を見れば『鳥追い、鳥追い』とぬかす。おれの鉄砲はあたるぞ、そーれ」
と冗談で銃口を向ける。
「鳥追いの鉄砲があたるものか、やーい」
と勘兵衛は平気で鉄砲の前に立つのである。
「なに、あたらん。あたるか、あたらんか撃ってやるぞ」
「撃つなら撃ってみろ」
「ほうら、撃つぞ」
とついに引き金を引いてしまった。

銃声が鳴り響き、「あっ」と驚く声とともに、勘兵衛はその場にどっと倒れた。鳥越軍曹は勘兵衛を抱き起す。目は半開きに歯を食いしばり、両手こぶしをかたく握りしめている。

銃声にかけつけた軍医は全身を急いで調べて、首をかしげる。衣類は焼け、腹部は火薬で黒く焼け焦げていたが、弾の跡がないのである。しかし、いろいろ手当をしてみるも、意識が戻らない。

急を聞いて駆けつけた父の庄次郎は、わが子を背負って急いで帰った。松平の広前に駆けあがり、勘兵衛を背負ったまま、「勘兵衛が殺されました」
とわっと男泣きをする。松平はさっそくご祈念のあと
「心配はなし、おかげを頂く」
とご神前からお神酒を下げ、意識のない勘兵衛の全身にかける。さらに祈念を重ねると「うーん」と口から一声もらし、目を見開き「ああ、おそろしかった」と叫んだ。

正気に返った勘兵衛の右の手は、握りしめられたままである。ゆっくりと指を開いてみると、なんと出てきたのは一発の銃弾であった。

松平は思い当たる節でもあるかのように、「津島さん、お宅のご神体を調べてごらんなさい」と告げた。

さっそく、自宅のご神前に祀っている、ご神米(お米をお神酒で洗ったもの)を見てみるとその神米は人間の腹部にあたるところが黒く焼けたようになっていたのである。

「津島さん、有難いことですなあ。ご神米を勘兵衛さんの身代わりに立ててくださいました」

取り調べにきていた、二人の憲兵もただただ、ご神威の尊さに恐れ入るばかりであったという。この事件がきっかけで、小倉の町で、金光大神の霊験のあらたかさが噂となった。

霊験の御神米

その33.桂松平編#4目玉ができるおかげ

明治二十五年(1892)の春のこと。遠賀郡矢矧村戸切(現岡垣戸切)から小倉の広前の桂松平をたずねて、ある兄弟が参詣してきた。

兄が言うに、「弟百太郎は六歳のときから目が見えなくなりました。ほかにさせることもないので、七歳から三味線を稽古させましたが、二十六歳の今日、いまだに師匠にもなれません。そこで、父母が心配し、この上は大阪に出して、しかるべき師匠につけたらと思い、今小倉まで出たところであります。大阪に行けば、その目的はかなうことと思いますが、ひとつ神様に御伺いしてくだされ」

松平は即座に、「二十年も稽古して、師匠になれない者が大阪へ行ったからとて、なれるとは思えん。それより、目の見えるようになる方がよいのではないか」と諭した。

「それにこしたことはありませんが、もはや弟には目玉がありませんので…」

松平は、「この方の祈る神は、人間五体は申すに及ばず、天地万物一切おつくりくだされたる神。さんしち、二十一日のあいだに授けてやる。前々からのご無礼のお詫びを申して神信心せよ」

目が見えるようになるならばと、そのまま弟は広前の隣に家を借りて住み、兄は帰っていった。弟百太郎は、日夜参拝しては教えを聞き、お詫びを申して一心に願い神信心をした。

参拝をはじめた次の日、「目の中が燃えるようで、涙が出そうでうずうずしてならない」という。松平は「はや、おかげは受けた。手付は打ったぞ。あと残る六日で目玉を授けてやる」と教えたが、その日には、しぼんでいた目玉がふくらんできた。

「目玉のおかげは受けた。後七日で目はあけてやる。お礼を申して、先を願え」
二週間目には、まぶたがわれるが、まだ見えない。
「二十一日を待て、晴眼にしてやる。安心せずに願え」と、重ねて教えた。
そしてついに満願の日。二十年を経て目が再び見えるようになったのである。
百太郎は、一度かえって両親を安心させようと考えた。

松平は百太郎の想いをくみ、「このご神米を一日一体ずついただき、ご神米のなくならぬ間に帰れ。神の都合がある。仰せを守らぬときには取り返しのつかぬことになるぞ」と申し渡す。

百太郎は喜び勇んで帰り、迎えた家族も大喜びした。そして、帰らなければと言う百太郎を引きとめて一週間が十日になり、十日が二十日になっていった。すると両眼がかすみはじめる。家族はお灸をすえさせたが、その夜から再び痛み出し、朝にはまた見えなくなってしまう。

家族の者もそこではじめて神さまへの無礼に気づき、再び小倉の広前へ参ったが、再び晴眼することはなかった。


その34.桂ミツ編隣人も気づかぬほどの安産

明治二十五年(1892)の初春。桂松平の妻桂ミツは子宝に恵まれ、出産を間近にひかえていた。かわいいわが子の初産のため、岡山沙美の実家からはるばる小倉まで母親がかけつけてくれる。

一月五日の朝、松平はご祈念のあと奥に入って「おミツや、今日、背骨がだるいか、こそばいい感じがしたら、子供が産まれるからな」と伝える。

母親は呆れた顔で「のう、おミツや、松平さんはあのように気安く言われるが、お産ばかりは分からんよ。むかしからお産は青竹を握り割るほど苦しく、痛みぬかねば生まれるものじゃないから、真に受けてはいけないよ」

ミツは母の方が本当であろうと思い、覚悟を決めて一心に祈り続けた。

夕方ちかくになって、松平は奥にきて、「どうか、背中がだるくはないか、腰のまわりがだるい感じはないか」と聞いた。

ミツの母は「男で子どもを産んだ経験がないとはいえ、ようもあんなことを言われる。そのように簡単に産まれるなら、毎日産んでもよいが、そういうわけにはいかない」と横からミツに注意をする。

それでもミツは夕食だけでも早く済ませておこうと、その日のお下がりになった鯨の赤身をすき焼きにして頂き、後片付けをしていると急にお腹がはってきた。

お産がはじまるのではないかと母にたずねたところ「馬鹿を言うではない。その位なことで産まれるものか。たくさん食べて洗い物をしたから腹の子が腹を立てたのじゃ」という。

ミツはやっとこさ這い上がり、座布団の所へ行こうとしたが一歩も動けず、座布団を引き寄せると同時にドッと分娩した。こうして男児の安産のおかげをいただのである。次の日から、ミツは平常のように差し支えなく動け、今更ながらご神徳の広大さに驚くのであった。

三月十四日、産後四十日目に沙美に帰る母親と親子三人で、大谷の広前へお礼参拝をする。

金光四神様は、大変お喜びになり、「この神を信心する者は、産前産後に腹が痛まず、隣知らずの安産をし、翌日から平生のとおりにおかげを頂ける。腹が痛んで子が産まれるなどと言うてはならぬ。これが九州のよい手本じゃ」と諭された。

ミツは七人の子どもを授かったが、そのすべてが手本のような出産であり、産婆さんも間に合わぬほどの安産のおかげをいただいたのであった。


その35.吉木栄蔵編#1戦場で多くの人を殺めた武士

天保十年(1839)七月二十五日、豊前国企救群板櫃村(北九州小倉)にうまれた吉木栄蔵は、生まれつき体格力量に恵まれていた。もともと百姓の生まれであったが、吉木家の養子に入り武士となって武芸に励み、慶応二年に二刀流免許の初目録を受け、明治三年には免許皆伝を受ける。

栄蔵は明治維新のときに幕府方として長州征伐の戦に従軍して手柄を立て、そのあとも元年の戊辰の役、明治七年の佐賀の乱、明治十年の西南戦争と三十九歳まで戦場にでて活躍した。はなばなしく活躍する栄蔵であったが、家庭内ではつぎつぎと不幸が続いていた。

栄蔵は二十三歳の年に妻アサと結婚するも、長男栄三は三歳で亡くなり、次男栄三郎は十四歳で亡くなり、四男清槌は九歳で亡くなる。さらに栄蔵が四十二歳の大厄の年に、妻のアサが眼病にかかり九年のあいだ苦しんで盲目となり、栄蔵自身は脳病をわずらってしまった。

戦いで多くの人を殺めた罪の意識からか、栄蔵は自分の手にかかって死んだ人たちの御霊を慰め、夫婦の病気全快を祈る修行の旅に出る。

白衣に修行者姿でジャリンジャリンと錫杖を鳴らし、各地の神社や寺院をまわって高々とお経を唱える。遠く富士山に伸び、長野県の山々、富山の立山、石川県の白山など、修行者や山伏が登る山々へ行った。こうして三年間、諸国の寺社を巡拝しつつ山にこもり滝に打たれ、断食を重ねるなど荒行を積んで小倉に帰ってきた。

この修行のあいだに栄蔵の脳病は平癒し、行者としての祈念力が備わり、祈祷を頼みにくる人ができたという。

栄蔵が五十歳のとき。近所で飼われていた牛のあいだで病気が流行り、次々と倒れるので、村人たちが小倉で金光大神の取次を行う桂松平の広前に参った。

桂松平は参る人々に天地の恩を話して聞かせ、そのうえで「何月何日までにおかげを受けよ」と日を切ってお願いし、その通りに牛はおかげを受ける。

その評判が立つ中、栄蔵の飼牛も疫病にかかってしまったので、小倉の広前へお参りをした。そこで桂松平の話す金光大神の教えは、これまでの修行の体験をもって聞き感じ入るところがあり、栄蔵はこれを境に天地金乃神へと神信心すると決意する。

この年の九月のこと。四人の男の中で唯一、育っていた三男の茂がジフテリアのような喉の病気にかかる。だんだんと悪化し流動食も喉を通らぬようになり、とうとう水も越さず、呼吸もしにくくなってしまった。医者も手を放し、ただ死を待つばかりになった。

栄蔵は、天地金乃神様へ自分の想いをぶつけ、力を入れて一心にお願いをする。

「私は、長州征伐の折り、多くの敵を切り功名をたてました。その後、吉木家には次々と不幸が重なり、四人いた男の子も今ではこの茂ただ一人であります。茂は大切な吉木家の跡取りでございます。どうぞ茂を助けてくださいませ。茂をお助け下さいますれば、私は桂松平の弟子となり、どこへでも行って道のために尽くさせてもらい、難儀をする人を助けさせていただきたいと存じます。もしも、この願いをお聞きとりくださいますならば、ただいま二つのお灯明にそのしるしを見せてください」

そのとき、ご神前に供えてあった灯明がバリバリと音を立てて、炎が高く燃え上がった。

「ああ、ありがたい。茂は助かる」とお礼を申していると、呼吸も止まり死体のようになっていた茂が「水がほしい」と声を出した。急いで母が茶碗をさし出すと、ゴクゴクと飲み干す。

しばらくして、今度は「おかゆが欲しい」と頼み、大急ぎでおかゆを炊いて差し出すと、これも喉を越した。こうして医者も手を引いて、集まった人たちも死を待つばかりの状態からおかげを頂いた。

その後の栄蔵の神信心は勢いを増し、仕事の上には次々と不思議な出来事があらわれ、十年近く眼病で苦しみ盲目となった妻アサの眼も晴眼となった。


その36.吉木栄蔵編#2山崩れの下敷きになった娘

「 息子をお助け下さいますれば、私は桂松平の弟子となり、どこへでも行って道のために尽くさせてもらい、難儀をする人を助けさせていただきたいと存じます。 」

息子の病気平癒を願い、その通りのおかげを受けた吉木栄蔵は、神さまとの約束を守り桂松平の弟子となる。

桂松平は神徳がおそろしく高く、自他共にきびしい人柄で、自らに課す修行は生半可ではなかった。月に一度は七日間の断食を行い、昼夜を通して横にならず、決して布団は使わず、春夏秋冬とおして着物は一枚のみ、夏に蚊帳をつらず、生身を火に当てず、寒中に外へ出て柄杓を使い背中に水をチョロチョロとかけ続ける…等、常軌を逸する修行の数々を行った。

また、神様事になると一切の妥協を許さず、すこしでもご無礼があろうものならば大声で叱り飛ばすため、弟子から「カミナリ」と呼ばれていた。松平の妻ミツは「涙の乾かぬ日がなかった」と語り、その厳しさについていけず途中で帰る弟子も多かったという。

元が武士である栄蔵も頑固一徹な一面があり、あるとき松平と意見が合わずに、「自ら身を引く」といって自宅に帰ってしまった。

その頃、明治二十二年十二月二十五日の朝のとき。松平はご祈念のあと顔を曇らせながら「『今日午後三時から四時までの間に、西南の方角で、娘三人大難かかる』とお知らせあったが、かわいそうな事である」と朝参りをしている人たちに話をする。

そこに居合わせた丸山忠吉は不吉な予感がした。午後四時ごろ、忠吉が仕事をしていたところ、到津村の人が小倉の広前へ駆け込んだので、忠吉も作業を中断してすぐに広前へと入る。

「三時過ぎに桧山で山崩れがありまして、女三人が下敷きになりました。大騒ぎとなってトロッコで十八杯も土砂を運びましたところ、三人とも折り重なって押しつぶされていました」と到津の人は語る。

その頃、北九州に鉄道が敷かれる工事がすすめられており、十二月の麦まきを終えた近くの農家の人らが男女ともに賃稼ぎに出ていた。その工事の中に桧山の切り崩しの作業があり、そこで山崩れが起ったのである。

「それで、三人の女は死んでしまったのか」
「いいえ、それが不思議なことに、一番下敷きになっていた娘だけが助かりました。」
「それはどこの娘じゃ」
「吉木栄蔵さんの娘でございます」
「おお、吉木の娘が助かったのか」
「ハイ、それでとりあえずお礼にお参りして、松平氏に伝えてくれと頼まれて参りました」
「そうか、それは有り難いことであった。そしてどこぞ怪我でもしているのか」
「いいえ、今のところ痛いところはないそうです」

松平は感無量となり神さまへと手厚くお礼を申しあげた。

これを聞いた忠吉はすぐに吉木家にお見舞いに訪ねる。栄蔵は神前にひれ伏してお礼を申しあげていた。

栄蔵は忠吉にズタズタに切れたどてら(着物)を見せ「娘はこれを着ていたのです。どてらはこのようになりましたが、身体には黒い染み一つなく、どこも痛くないというのです。まさかと思い神さまのお社を開けてみましたら…」

そこには、どてらのようにボロボロになったご神米があった。

栄蔵は神様との約束を無視して、修行を中断したわが身のご無礼を詫びた。そして、再び桂松平のもとで修行に励み、のちに福岡で広前を開くのであった。


その37.浅井岩蔵編#110年続いた七転八倒の腹痛

文政十二年(1829)三月十八日、備後国沼隈郡松永村で出生した浅井岩蔵は25歳の頃から、船で塩やたばこを積み四国へ売りに行く海運業をはじめた。

この頃、疝痛(せんつう)という周期的な腹痛と坐骨神経痛にかかり、発作が起こると七転八倒、畳の上をのたうち回るほど痛み、一時は自殺しようと思う程であった。

岩蔵は、医者や薬、鍼灸、按摩あらゆる治療を試した。按摩は毎夜三年も続け、お灸は背中から腰に一面、灸の跡が残るほどすえた。その甲斐なく一向に病はよくならない。岩蔵は、これより他は神仏に頼るしかないと思うようになった。

当時、松永あたりではお稲荷さんの神信心が流行っていた。お稲荷さんに参るとご祈祷があり、おまじないがあった。このおまじないが不思議で、盆の上に米粒をおいてご祈念をしていると、いつの間にか米粒が盆の上で一本立ちになる。

お稲荷さんの信仰はあらたかであったが、肝心の病気は一向に治る気配がない。船稼ぎの隙にお参りするが、仕事を休めば収入も減るし、米粒が一本立ちになったところで、疝痛が治らなければ何にもならないと迷いがでた。

そのあと、人から金光大神の道のうわさを聞き「騙されたと思うて、笠岡の金光さんのところへ参ってみい」と勧められる。文久二年、笠岡の金光様へお参りすると、斎藤重右衛門は、

「二本の柿の木があって、一本は甘柿、一本は渋柿であったら、人はもちろん甘柿の木を好む。しかし、渋柿に甘柿を接いだら今まで渋柿であった木も翌年からは甘柿となって人々に好まれる。今、そなたが不治の病と思っているのは渋柿である。今の心のままでは、治るときは来ないが、『今日から治していただく』という心をそこに接ぎ木せよ。心を入れ替えて、おかげをいただけ」

心を入れ替え一心に神信心に打ち込み、ほどなくして約十年つづいた疝痛は見事快癒した。


その38.浅井岩蔵編#2定期相場による多額の借金

浅井岩蔵は、十年ものあいだ続いた腹痛が笠岡の斎藤重右衛門の取次をきっかけにおかげを頂いた。その後、神信心をするようになり船での海運業で行く先々の港で、難儀をしている人に神の教えを話して聞かせたり、その人に代わって神さまへ願っていた。

その頃、同じ神信心をする友達の小田吉助という人に「一緒に商売をしよう」と話しをもちかけられる。この商売とは、将来の商品の相場(値段)を予測して取引をする、投資のような先物取引であった。

気の合う仲間からの誘いに岩蔵は承諾し、大きな商売をはじめたところ成功する。売り買いをするときには神にお伺いを立て、神が「買えい」とおっしゃれば買い、「売れい」とおっしゃれば売るという具合で大儲けが続いた。調子が良い二人はさらに大きく商売をやりだした。

ところが、あるとき買い値が暴落して、二人の家を潰しても足りない程の損金ができてしまう。

吉助は腹を立てて「神が買えと言うたから買うたのに。人のことなら、ようおかげを授けておいて、自分の商売になると大損をさせる。こんな神なら信心はやめた」といい、神棚を海にながし、拝む目当てしていた書付は便所のなかへ投げ捨てた。吉助は借金を払うのに、家も船も売ってしまい難儀をした。

一方、岩蔵は田地田畑を売っても借金を払いきれず、笠岡の斎藤重右衛門に助けを求めようと保命酒を買って参拝した。

笠岡へ着くや否や、斎藤重右衛門はたいへん立腹しており、土産に持って行った保命酒をたたき割ってはげしく叱り飛ばす。岩蔵はもともと短気であっため「よくも人に恥をかかした」と腹を立て、心のうちに「神信心は今日限りやめにする」思いながら去った。

神信心をやめると決意した岩蔵であったが、「大谷の金光大神さまにはかねがねお世話になっておる。最後に挨拶をしよう」と大谷に向かった。

大谷の広前つくと金光大神は「松永の金子宮(浅井岩蔵)、こっちへ来い。よう参ってきたのう」と親切な言葉で迎え入れてくれる。嬉しく思う岩蔵に、金光大神は重ねて話を聞かせた。

「松永は笠岡にとっては子、この方にとっては孫。親から言えば、なんで子が憎かろう。なんぼ言葉が悪かろうと悪い言葉の底には、口には出せぬ思いがある。親の心子知らずではなりませんぞ。この方が笠岡へはよう断りを言うておいてやるから、忘れずに笠岡に寄ってお礼を言うて帰るのぞ。」

そうして神前に供えられたお金を下げて、「これは僅かじゃが、持って帰って商売の尻ぬぐいをするがよい」と岩蔵の手にお金を渡された。岩蔵はありがた涙を流して、お言葉通り帰りに笠岡へよった。

すると、先ほどあれほど強烈に叱り飛ばした斎藤重右衛門が、うって変わってやさしく出迎えてくれる。

「よう帰ってきてくれた。お前があのままどうするかと気になってならなんだ。間違った道を歩いたと気がついたか。まともな商売をせずに、一獲千金を夢見て相場をするのは神信心の道にかなわない。まともな商売に身を入れて、心を入れ替えて、生き返るのじゃ」と、こんこんとお話された。

岩蔵は涙を流し話をききながら、「ほんに自分が悪かった。可愛いければこそ、性根を入れ替えるように叱り飛ばされた。その親心が自分には分からなんだ」と本心からお詫びした。

斎藤重右衛門は神前に供えられた金をわしづかみに取り、「これで借金の尻ぬぐいをするがええ」と金光大神と同じように渡してくれた。

このときのお金を後で数えてみると、金光大神がくれたのとまったく同じ金額であったので、岩蔵は恐れ入って目を覚ました。


その39.高橋常造編#1商売のお繰り合わせ

安政二年十一月十八日、香川県三豊郡箕浦村に生まれた高橋常造は、幼少の時より石鎚様を信仰する母の影響を受けて育ち、物に執着せず、慈悲善根の人柄であった。

常造が二十一歳のとき、近所に村で最も困窮している孤独の老夫婦のもとを訪ねて、「おばあさん、わしが養子に来ようかな」と話をもちかけた。すると老婆はわるい冗談と受けとり、「年寄りを馬鹿にするにもほどがある」と疑う。

常造は「本当ですよ」と答えて、幾日も経たないうちに老夫婦の家に養子入りする。養母トメは、それから三カ月後の明治十年十一月、養父弥三郎は明治十五年十一月に、常造の手厚いみとりのうちに世を去った。このように人助けの信念をもった常造は、青年時代すでに「徳が高い」と評されたという。

常造は和船を所有し、箕浦を基点に瀬戸内海沿岸の中国筋との産物の取引をしていた。明治三年のあるとき、常造は香川県の特産の白下糖のタル詰を船にたくさん積んで、笠岡の港へ入港する。以前から斎藤重右衛門のうわさを聞いており、笠岡の広前へと参拝しようと思い立つ。

初参拝のあいさつを申し上げると、重右衛門は即座に「お前は、つまらんものを積んで来たのう。タルの中をみてみい。上の方はよいが、下の方はドロドロじゃ。このままでは買い手がないから売るのを二、三日待て」といった。

常造は不信に思いながら船へと帰って調べてみると、まったく言われた通りで、タルの底の方はドロンコに溶けて、とうてい買い手のつく品とは思えない。

そこで教えられた通り、二、三日待っていると、不思議やこの品でもよいという人が現れて全部買ってくれたので、大きな損をすると困っていたが、逆に利益を得られたのである。常造は重右衛門の神徳の大きさに心を打たれ、その後、熱を入れて神信心をはじめた。


その40.高橋常造編#2見抜き見通しによる大漁のおかげ

高橋常造は、斎藤重右衛門や浅井岩蔵の手ほどきをうけて神信し、やがて取次を行うようになった。神徳が非常に高く、常造に接した人は、口をそろえて「見ぬき見通しのお方であられた」という。

「自分の心は、神様から頂いた鏡であるから、その鏡をみ教えによって一生懸命磨かしてもらわねばならない。磨いて磨きぬいたら、三千世界のことが皆映るようになる。それを皆、惜しい、欲しい、可愛い、憎いというような心で曇らすからいけぬのじゃ」

一里先も自在に知れる常造の逸話は、数多く残っており、その一つに漁師が大漁のおかげをこうむる話がある。

ある年の十一月末、四時ごろ。漁師風の男三人が常造の広前に参拝した。「私は広島県の因島の者でありますが、生業は漁師であります。これまで資本を入れてはや三年ほど漁をいたしますが、毎年不漁つづきで丸で損のため、今年は年越しはできぬかと思います。なにとぞ漁のありますように」と願う。

常造は、代々漁師を家業としているが神の恩を知らぬゆえに不漁になると教える。

「ここへお祀りしてある神は天地の神である。親が子を産み育ててくださるように、天地の中にあるもの一切を産みお育てくだされてある。してみれば我々の生命は親神様のご恩のかたまりじゃ。何ほど人が賢こうても米粒一つ、魚一匹造れまいが。…」

この話を聞いた漁師たちは心を改めて、これからは天地の神へとご報恩を誓うのであった。

常造は、神前でご祈念をして大祓を三巻を奏上したあと、「今、伊吹島に西南に当たって二里余りのところからボラがわいてこちらへ押して来よるから、船の用意をして行け、急ぐのぞ」と仰せになった。

漁師たちは大いによろこび、川之江にて船の用意をして夕方に出発し、翌日の夜明け前ごろ、ふたたび広前に参ってきた。

「あなた様の教えのとおり、伊吹島西南一里ほどまいりますとボラ群れに出遭い、さっそく網を入れて引き揚げましたところ、大きなボラが二千尾近く捕れました。親方も大変よろこびまして、何ともお礼の申しようがないと言うておりました。すこしでありますが、神様へお供えください」と大ボラ五尾を神様に供えた。

常造は、「氏子の真心が親神様のお心に適うたら、いかなるものでもお授け下さるからのう。親のものは子のものと、昔から言う通りじゃわい」と仰せになったという。


その41.高橋常造編#3神社の神官からの手紙

高橋常造は若い時から船乗り商売を業としていたので、学問教育を受けておらず読み書きが出来ず、手紙やハガキがくると毛利良吉という人に代筆を頼んだ。その毛利良吉いわく高橋常造は手紙の封を切らずとも、書かれている内容が詳しく知れたという。

あるとき数通の手紙の中から一通を手渡しながら良吉に言う、
「これは熊本県からきておる。三十四歳になる婦人じゃが、慢性子宮病で二、三年難儀しておる。親類から手紙でこちらのことを教えてもらい、朝夕この広前の方を向いて祈念しておるから、取次で助けてくれと頼んできておるのである。この家にもメグリが深いが、その上この夫人も深いメグリを積んでおるのじゃから『これまでしてきたことを考えて一心にお詫びをせよ。一心とは、食わず寝ずでもこの病気を治さねばおかん、この病気が治ればたとえ明日死んでも厭いませぬという捨て身の決心である。一週間二週間三週間と日切りをして頼め。五週間のうちにおかげがある。』と書いてやれ」

良吉が手紙の封を切って読むと一言も違いがない。その通りに返事を出すと、その後、熊本の婦人からおかげを頂いたお礼の印にと、広前の結界に敷く蒲団を絹でこしらえて送られてきた。

常造はつねに「眼の開いているものはかえって不自由するのう。私は盲目(読み書きが不自由)じゃが封を開く手間がいらん。神信心して心眼をひらかして貰わねばならんのう」とよく語ったという。

あるとき、広島の鳥居神社の神官から手紙がくる。その神官は六十二歳で大教正であった。

大教正とは、明治政府が神道布教のために制定した教導職の位の一つで、十四位のなかの最高の位である。教導職とは「敬神愛国、天理人道、皇上奉戴」の三条にもとづき、各地の社寺で説教をおこない、国民の教育をになう役割である。どうやら送り主の神官は、よほど位の高い神職のようである。

「一年あまり前より、中風(半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺など)にかかり身体の自由を失い、苦しみまして、いかに養生いたせども全快に至らず。私は大教正の位を頂いて氏神のお守りをしておりますが、神に心願をかけ、かにすればおかげが頂くということが分からん。承りますれば高橋常造師は神徳が高く、多くの病人におかげをお授け下さると聞きますが、いかなる信心いたしましたらおかげになりますか、甚だ恐れ入りますがご教示くだされますようお願いします。」

常造は「向こうは大教正である。いらんことを詳しく言うと法律の関係で疑いを起こすかも知れんから簡単に一言で返事してやれ」といった。良吉が「どのように書きましょうか」とたずねると、

「『神に使われる人は仕合せじゃが、神を使う人は不仕合せじゃ。三千世界に我ほど悪い者がないと思い、心を改め寝食を忘れてお詫びなされ。一週間二週間三週間と日切りをしてお願いしたら手紙が書けるようになる。当所でも朝夕ご祈念する』と返事をしておけ」と言われるのであった。

それから一か月後、神官から自筆の手紙が届く。おかげを受けたと手厚くお礼を申し、弘道館の雑誌を数十冊と初穂が一緒に届いた。良吉が「なぜ、あの簡単な手紙で悟れたのでしょうか」と尋ねると、

「あの神官は慢心して神様より上になり、神様を食いものにしておるから、氏子のメグリ(ご無礼)を自分で抱えねばならぬ。氏子から神様へというて供えたものでも、心の中で神様より先に頂いておる。このような心になると、神様はほんの名ばかりで実はない。氏子から奉るお供えには氏子の罪やメグリがついておるのじゃ。人間はそれを取り扱う徳がないから、皆その罪メグリを自分で引き受けねばならぬ。そうなれば身にも家にも苦情が絶えなくなる」と仰せになった。


その42.藤井きよの編盲目でありながら針に糸を通す

文政十二年(1829)八月十六日、備中国下道郡陶村で生まれた藤井きよのは、同国浅口郡大谷村の藤井駒次郎に嫁いだ。長男恒治郎を出産したのちに「はやそこひ」(黒内障?)という眼病で失明したのをきっかけに、大谷の金光大神のもとへ参拝をする。

「めくらでは何かにつけて不自由であろうから、目をあけて頂くおかげを貰われてはどうぢゃ」と金光大神が勧めると、きよのは「そんな無理なお願いはわたくしにはできません。ただし眼の開いている人のするだけの事はおかげ頂きたい」と答える。金光大神は「目は見えんでも、一生、不自由はさせぬ」と返したという。

きよのの眼は二十五歳からまったく見えなかったが、仰せの通りおかげを受けてからは、どこへ出かけるにも杖は要らず、農作業はもとより、機織り、裁縫、炊事など何でも差し支えなくできた。

布の色や模様の判別ができ、針に糸を通したり、柄がついた布の縞目を合わせたり、股引きは上部と下部の太さが異なるため縫うのが難しいのであるが、それも巧みにできたため近所の娘たちが裁縫を習いに来ていたという。

きよのの宅は、金光大神の広前のすぐ近くにあったので、毎夜のように参拝をし遅くまで話をし、金光大神が寝室に横になってからも話を続け、返事が遠のいてしだいに無くなってから帰る日が度々あったという。

やがて「向明神(むかいみょうじん)」の神号を許され、遠方からの参拝者の宿泊の世話をするようになり、夜に参った者はきよののところへ参拝して話を聞いたという。


その43.白神新一郎編神仏に祈念するも開かなかった眼

文政元年(1818)五月二十五日、備前国岡山の中之町で生まれた白神新一郎(しらかみしんいちろう)は備中屋と号する米殻商をつぎ、岡山藩池田家のご用達をつとめ、商売を広げるのであった。

新一郎ははやくから四書五経を修め、文学や生け花、茶道など、当時の町人の子弟としては高い教養を身につけていた。しかし、運命はきびしく、父と四男を失ったあとに眼病を患い、四十二歳の大厄の年に盲目となった。

生来、信仰のあつかった新一郎は大法院真徳から山伏の補任状をうけ、良覚坊松寿院と名のり、不自由の身ながら金毘羅宮、伊予石鎚になどに詣でた。四国弘法大師の霊跡八十八か所を二度巡拝し、備前児島にさだめられた八十八か所霊場の遍路には十一回もおもむいたという。

ときには、九日のあいだ塩断ち(塩気のある食物を断つ)をして祈念をこらすも、眼が治るどころか、もっとも望みをかけていた三男が十八歳の若さで亡くなってしまう。苦難のつづくなか、明治二年(1869)十二月十一日、岡山の中島屋で藤井きよのと出会う。

藤井きよのは二十五歳から盲目であったが金神さまよりおかげを受けて、針に糸を通したり、布の縞目をあわせる等、家事一切に不自由がなかった。新一郎は、藤井きよのから金光大神の道を教えてもらい金乃神を拝むようになった。

翌年の正月二十日、大谷の金光大神の広前に初めてお参りする。それからというもの、岡山から十里ほど(40キロ)の道のりを、たびたび参っては数日のあいだ滞在して話を聞きた。

明治三年の年末の滞在時のこと。正月にまたあらためてお参りさせてもらおうと、金光大神のもとへ帰りの挨拶に参った。そのときに、「白神さん、もう少し辛抱ができませぬか」となぜか帰るのをひき止められる。

意外に思う新一郎であったが、「何か考えがあられてのことだろう」と素直に従った。

そうして、いよいよ年の暮れも近づいてきた晩、いつものように宿で風呂に入っていると、ぼんやりだが明かりが目に映る。「今は昼かな、夜かな」とたずねると、「夕方ですよ。暗くなったので、ただいま行燈に火をいれたんです」と返事があった。

新一郎は「これはおかげじゃ。おかげを頂いて、眼に明かりが入ったのじゃ」と驚き、すぐさま金光大神のもとへお礼に参った。

これがおかげの受けはじめとなり、十年ものあいだ苦労した眼病が、年が明けるとともについに平癒して晴眼となった。


その44.白神新一郎編#2大阪から大谷への日参

大阪の広前で金光大神の道を伝える白神新一郎が金光大神のもとへ参詣をしたとき、「その方の広前の者であろう。北野新地下原に住む入江カネ女と申す者が、この方に毎日参拝いたしておる。これを持ち帰って渡してやれ」と言われ御書付を渡された。

大阪から大谷(岡山)へは今でこそ新幹線で二時間程度でつくが、当時は船や人力車や徒歩で数日かけて参るくらいの距離であり、とうぜん日参は不可能である。新一郎は大阪へ帰ったのち、参拝者が記された御祈念帳を調べてみるとたしかに「入江カネ」の名があった。

新一郎はその者を呼び寄せて金光大神が申した通りをつたえると、カネは「その日稼ぎの忙しさにおわれながら、暮らしておる身でございます。どうして日参などかないましょう。一生に一度なりとも金光大神のおかげを拝ませていただきたいと、明け暮れお願いしておるばかりでございます」と答えるのであった。

白神新一郎は「そうであろう。その明け暮れのお願いこそ、金光大神のもとへのまことの日参である」と励ました。


その45.初代中村鴈治郎編歌舞伎役者の受けたおかげ

歌舞伎役者、成駒屋「中村鴈治郎(初代)」は老婆の病がたちどころに全快したのを機に、神信心をはじめる。信仰をはじめると病気と名のつく病気にかからず、芝居を休んだことがなかった。

丈夫な体の鴈治郎であったが、明治四十四年の暮れ、鴈治郎が京都で細川勝元を演じたのち、旅館に帰ると急に胸が物を突っ込んだように痛む。その苦しみ以来、とかく体がすぐれない状態が続いた。

翌年正月の二十六日の午前三時頃、ふたたび胸に痛みが走り、朝の七時まで家人が撫でさすりをしたり、医者の薬をのんでみるも一向によくならない。鴈治郎はさっそく、妻女のおせんに命じて、お神酒とご神米とを頂いた。

お神酒とは神に供えしお下げしたお酒、ご神米とはお米をお神酒で洗い乾かしたもので、これらを有難き心で頂いて多くの人がおかげを受けた。

鴈治郎が神を拝み、お神酒とご神米とをいただくと即座に霊験があらわれ、七回にわたって嘔吐をもよおし、最後に長さ一尺(30センチ)もあろう回虫が飛び出した。

ようやく胸の痛みがおさまったが、一夜の苦しみでひどく疲れがたまり起き上がるのもむずかしい。芝居にも出られそうにもないところであったが、ふと欲が出て、芝居にも出られるように一心に願った。

いつしか夢に落ち、再び目が覚めたところ体は生まれ変わったように爽快になり、その日の舞台も勤められるようになった。

鴈治郎は舞台に立つときには、かならず金光大神の名を唱えて「どうぞ障りなく無事勤まりますよう、御見物に満足がいきますよう」と願ったという。


その46.和田安兵衛編うつ病と肺結核にかかった青年

安政二年(1855)三月十五日、大阪の住吉軍安達町の紀州街道に生まれた和田安兵衛(わだやすべえ)は家業の乾物商をはじめ、副業で綿屋、米殻商、菜種、麦をあつかい商売をしていた。

安兵衛は十七歳の頃から、毎年四月から八月頃まで、どことなく気分が悪くなりうつ病になる。父の安右衛門は一人息子の安兵衛を心配し、医師という医師、薬という薬はことごとく試したが一向に効き目はなかった。

その頃、大宝寺の藤井という有名な針医者から「この病気には黒豆に飴と塩とを入れて食べるがよろしい」と聞き、豆を一斗二三升(15キロあまり)も食べて、そのときはよかったが、翌年には同様に発病した。

今度は「毎日、芋を食うて川中に身を浸せばよい」と言われるので、その通りにしたら体は衰弱して肺結核にかかった。母親は見るに見かねて「こんなことをしていては身体が持たぬ」と辞めさせたが病が治る見込みもない。

当時、肺結核は不治の感染症のため、安兵衛は住吉の松林の仮小屋で隔離されて養生をしたが、病状はしだいに悪化し、ただ死を待つばかりであった。

母親のキクは息子を想い氏神様に毎日お参りし、あの手この手を試して神に祈っていたところ、明治九年の春に近村浜口村のナカに安堂寺町に生神様がおられるから一度参るように勧められる。

そうして安堂寺町で金光大神の道を伝えていた白神新一郎の広前へ参った。病気の具合をお届けすると、

「天に向かっては日月様と申してお礼拝するけれど、お土地の恩を知る者はない。そればかりか方角の吉凶をいい、土地に不足を申し、その無礼に気づかぬから病気がよくならない。よくお詫びして神信心するがよろしい」

白神新一郎の教えを母親から伝え聞かされた安兵衛は心から感じ入り、「ちょうど父親に孝行をして、母親に孝行せぬ様なものである。相すまぬことであった」と得心し、地の神へ無礼を詫びて一心に願った。

こうして天と地の神を信心するようになったところ、三日目には気分が清々しくなった。広前へのお参りも、はじめのうちは乗り物を使っていたが、四十日ほどで歩いて参拝ができるようになり、それから八十日ほどでうつ病も肺結核も共に全快した。

その後、商売もますます繁昌し、思う事が成就するので神信心が楽しくなり、毎日四時間かけて白神新一郎の広前へ参拝するのであった。


その47.近藤藤守編#125歳が天命と告げられた青年

安政二年八月二十日、大阪の城西大手通りにある飛脚業天満屋の跡取りとして生まれた近藤藤守は十四歳の頃、ある老人に二十五歳が天命と告げられる。その老人の名は及川鼎といい、世俗を捨て去った仙人のような暮らしをする観想家であった。

藤守が二十五歳になると日に二、三度と鼻血がダラダラと流れでて、朝から晩まで頭が疼きつづけるようになり、医者はこれを脳漏と診断した。手のほどこしようもなく、重態となった藤守は医師に匙を投げられてしまう。 及川老人の二十五歳が天命と告げられたのが現実のように思えるのであった。

天満屋の跡取りが病気で一命が危ういと噂を聞いた伊藤文助という呉服屋は、大阪で金光大神の道を伝える白神新一郎のもとへお参りをするように勧めた。

藤守は疑い深く、神信心をするようなタチではないため、ひやかし半分、やじ半分でしぶしぶ参ったが、白神新一郎が話す天恩、地恩の教えを聞いて「結構なみ教えだ」と感銘した。

帰りにささやかなお社を買い、家に天地金乃神をお祀りしたが、神を信じきったわけではない。自身の二十五歳の天命が変わるとはどうにも思えず、病気平癒のお願いする気にはなれなかった。

それから数カ月が経ち、いまだ病気が治らぬ藤守はふと想った。
「自分はこれまで天恩地恩など知らずに暮らしてきたのであるから、天にしても地にしても犯した罪は少なくないであろう。子供の折から親にも不孝もし、ずいぶん放蕩もして祖先からの金銭を湯水のごとく使った。天地に対して数々の無礼が重なっているにちがいない。天命で死ぬも、業病になるのも当然である。今日は神に一切の懺悔をしよう。この上は裁判を仰ごう」

藤守は裁きを受けるつもりで神前に端座し、供えてあったお神酒を神様のお下がりとして一気に押し頂いた。病気のため永いあいだ一滴も口にしなかった酒である。

苦しんでも死んでも今更躊躇するところではない、どういう結果であれ受け入れる覚悟を決して、神前に伏して時を待った。

久しぶりに飲んだ酒が異常にまわり、何時とはなしにうとうと寝入ってしまった。夜も明けた頃、ふと気づいて目を覚ますと、実にさわやかな清々しく、生まれ変わったような心地がした。こうしてあれほど苦しめられた膿漏が酒に拭い清められたごとく、全快したのであった。


その48.近藤藤守編#2嵐に助けられたお礼参り

脳漏の病が平癒した近藤藤守は、それから白神新一郎を慕い、神信心をすすめるのだった。やがて「教えの元である金光大神様とはどのような方であろうか、一度はお目にかかりたい」という念願から大谷の広前へ参拝することとなった。

明治十四年一月二十八日の早朝、藤守は妻梅子と大阪の梅田駅から汽車に乗った。その頃は、山陽線も設けられてない時代で神戸で下車をし、徒歩か人力車で行くほかなく人力車に乗った。

しばらく道をすすめていると、人通りのない路で客待ちをする俥夫(人力車を引く人)が 「その車売らんか」 とこちらの俥夫に話かけてきた。見れば人相の悪い大柄の荒男である。

こちらの俥夫が「姫路までのお客様じゃ」と何やら話し、与三郎に相談もなく「車を乗り換えてくれ」と要求してきた。乗り換え先の男の風貌が悪いのでためらったが、しぶしぶ乗り換える。

一里あまり過ぎた頃、俥夫が腹ごしらえをしたいと言い出し、最寄りの茶店に入って一人はいってチビリチビリと酒を飲みだした。

一癖も二癖もある奴と不安におもったが、姫路まではこの俥夫が唯一のたよりと諦めた。日が傾きはじめ「このまま徒歩で歩くわけもいかない」と思っていたところようやく俥夫が酒をやめて出発した。

日が暮れ暗くなった道を進んでいると、待ち伏せしていた別の男が現れて「割合に早かったな」と人力車の後ろを押しはじめた。「いよいよ、エライことになったなあ」と思い悩むも、女連れで罠に落とし込まれた今となっては逃げように逃げられず、ひたすら神様に願うほかなかった。

すると不思議やこのとき、急に空模様が変わりはじめた。黒雲があらわれ暴風が吹き起り、降り積む雪を吹きちらし、雨も加わり顔も向けていられない程の大暴風雨となった。雷が鳴り響き、人力車も転覆するほどの大風になり、元来た道に吹き戻される。

やがて一軒の家の近くに人力車がとまったので、その隙に二人は飛び降りて駆け込んでみると幸いにも宿屋であった。「今晩はここに泊まる」と俥夫を追い返しホッとしていると、泊まり合わせた者が雨戸をあけて外を眺め「オイ、やんでいるぞ、これが本当の気狂い天気と言うもんじゃ」という。先ほどまでの荒れ狂った天候とはうってかわって、星をちりばめて晴れきった空となっていた。

話を聞くに先ほどの俥夫は旅人を悩ますならず者で、連れ込んで持ち物一切をはぎ取ろうという魂胆であったようである。与三郎はかの暴風雨こそ神のおかげであったとお礼を申し上げた。

二月一日、ようやく大谷の広前へたどりついたが、予想外れに驚いた。古い建物に飾り気のない六畳間、崩れかかった壁に、破れ畳、田舎の百姓の家そのものであった。小さく粗末な神棚のかたわらに、湯上りと思われるほどのつややかな顔色をした小太りの老人が座っている。

「こんにちは」と挨拶をすると、老人は「大阪から参られたのかのう、途中でよい霊験を受けられたのう」と一言。自分達の出来事をすでに御存知であると驚き「生神とはこの方だ」とすぐに悟った。


その49.近藤藤守編#3疑念と信じる心の綱引き

大阪から大谷の金光大神の広前へ参った近藤藤守は、二日間にわたり滞在し、昼となく夜となく心ゆくまで理解(お話)を頂戴した。そのときに、手に神の知らせを受ける「手みくじ」をいただく。

「近藤さん、子どもを寺小屋にやって字を書くようになれば、手が上がったという。手が下がったのは悪い。神様の前でお伺い申そうと思い、一心にお願いすれば、手が上がるようなことがある。これは、よいことを知らせてくださるのである。下がるような心地がするのは、悪いことをお知らせくださるのである。おかげを受けるがよい」

翌日二月三日、大谷出発の際にさっそく手みくじで神さまへ、天候のお伺いを立てたところ「照らず降らず」との知らせを受ける。

大谷を出発して玉島までくると雲行きが怪しくなり、妻梅子が「傘を買おう」と言った。先ほどのお知らせを信じる藤守は「傘はいらぬ」としりぞける。それでも真冬に雨が降ってはたまらないからと梅子は傘を買ったが、結果は手みくじ通り「降らず照らず」の天候で、傘いらずで宿へと着いたのであった。

こうして藤守は手みくじを授かり神信心が楽しみとなり、いっそう打ち込んだ。、月に二、三度も大阪から大谷へと参り、金光大神より数々の理解を承って信心をすすめ、やがて難波に広前を開き取次を行うようになる。

藤守の取次による霊験はあらたかで、「これは三日でおかげを頂きなさい」と言うと必ず三日でおかげを頂き、むつかしい病人でもどんどん助かったという。

自らは命を助けてもらい、手みくじで右左を教えてもらい、人を取り次げばつぎつぎと助かり、広前は大変にぎわう。破竹の勢いで道を切り開くも、ある時ふと「ばかばかしくてたまらない」ようになり、神様が有難いと思えなくなってしまった。

人の願いを神へと取次ぎ「おかげを受けました」とお礼にきても、心の中では「なあに、そんな馬鹿な事があるものか」と胸に浮かぶ。

馬鹿らしくて馬鹿らしくて仕方がなかったが、その一方ではこんなご無礼を思っては相済まないとも思う。どうにかして疑いの心を取り去りたいと思うも、日を待てども一向に疑念は消え去らず、しだいに激しくなった。

「すまん」と「馬鹿馬鹿しい」の二つの想いがかっとうし、心の中が苦しくて堪らない。くわえて、この疑いの心を抱くようになってから、手みくじがまったく頂けなくなってしまった。

苦しみに悶える藤守は考えぬいた末に、お詫びの行を決意する。

庭に土を持って中央に榊(さかき)を植えて、周囲には杉の木を植えて玉垣をつくり、榊には八寸のご神鏡を下げた。

夜中、妻が寝静まった頃に一人起きて、氷が張っている樽桶の中にザブっとつかる。腹の熱で氷水からは湯気が立つ。そして、水からあがって単衣一枚を着て、神鏡のかけてある榊の前に端座する。

神様に心を向けて「私は天地の神を離れては片時もおられませんから、私の命をただ今限り苦しめずお引き取り下さい」と一心になってお願い申し上げた。

明け方になると、腹の底からグラグラっと何ともいい知れない有難さが湧き出てきた。そして、それまでの疑念は起こそうと思っても起きなくなり、ただ一人涙が落ちるほど有難くなったという。こうして、「ばかばかしくてたまらない」という疑念は見事に消え去ったのである。


その50.近藤藤守編#4好きな物を食しておかげを受ける

日本橋筋二丁目に住んでいた土居源治郎は、医者に慢性頑症胃腸カタルと診断され、それからは好きなお酒も飲まずに、ひたすら食の養生をしていた。しかし、体は良くなるどころかますます重態となり、遺言まで残してただ死を待つのみとなった。

その当時、大阪で評判であった金光大神の道の信心を人から勧められたが、疑い深く神信心が大嫌いなため、邪神か狐狸の類いだろうと見下げて耳を傾けなかった。ところがある日、懇意にしていた兵庫高砂に住む稲田弥吉という人に、なかば強引に人力車に乗せられ、難波の近藤藤守の広前へ参った。

「お前さん、よう痩せてるな」
食の養生でやせ細った源治郎を一目して、近藤藤守は言った。
「はい、私は医者から慢性頑症胃腸カタルと診断され、薬はいくらのんでも効能はないと言われましたから、ただ食養生が第一と思うて、食物は一食に飯一茶碗を水に五杯にいれて一時間ほど煮き、どろどろになった粥と、梅干し一個、卵一個をとるだけで間食はもちろんせず、好きな酒も一切断って養生をしておりましたが、一度食事をすれば二時間後には下痢してしまうという有様で、日々衰弱する一方です。自殺までしようとしましたが、それもできず今日まできましたが、もう遺言も残しておりますので…」

「ふむ、お前さんは自分で好いて痩せているのぢゃ。小さい男でもないのに、一食に飯一杯、梅干し一個、卵一個では、痩せにゃならん。お前さん飯は嫌いか」
「いえ、嫌いではありませんが、食べると悪いのです」
「酒は飲まんか」
「酒は好きで、病気になるまでは、一度に一升くらい飲んでも平気でした」
「それでは肴は…」
「それも悪いから食べません」
「お前さん、よう聞きなさい。この道では、食物は人の命のために天地の神がつくり与え給うもの、何を食うにも飲むにも有難く頂く心をわすれなよ、と教えられてある。好きは薬、嫌いは毒。命のために食うのじゃから、日に三度食べれば命に別状はない。三食は餅なり寿司なり、何なりと頂きなさい。好きな食物でも腹一杯食うてはなりませぬぞ。胃腸病というのは物を食べたがるものじゃから、食べとうなったらご神米をいただきなさい。そうすれば辛抱できる」と藤守は一通りの道理を教え、神様へとご無礼をお詫びさせた。

源治郎はこの言葉によろこんで、さっそく帰りに神具一式を買い求めて、帰宅後に天地金乃神さまを自宅にお祀りをした。堅いごはんを鉢に盛り、お神酒を二合、まぐろの刺身一人前、ブリの煮つけ一切れをお供えして、一生懸命お詫びを申し上げる。

そうして妻に「今日からお粥はやめぢゃ」と告げ、それでは何を召し上がるかときかれるので、「神様に供えてあるお下がりをいただくのぢゃ」と答える。

妻をはじめ周囲の人は「そんなものを召し上がっては死んでしまいます」と止めるも、「イヤイヤもう止めてくれるな、わしの好きなあのお下がりを頂いて死ぬのなら本望ぢゃ」といって、皆食べてしまった。

医者に止められて以来、二百五十日以上ものあいだ一滴も口にしなかった酒を二合もお神酒として頂き、剛飯三碗、まぐろの刺身、ブリの切身を頂いて、すっかりお腹は満たされ、天井がクルクルまわるほど酔い「有り難うございます」とよろこんでいるうちに何時とはなしに寝入ってしまった。

そうして二時間ばかりぐっすりと寝て、ようやく目の覚めたとき、妻に腹具合はどうかと尋ねられるが非常に体の調子がよいので、これでおかげを頂いたと神前に座ってお礼を申し上げる。それから日に日におかげを頂き三週間目には全快をしたのであった。


その51.近藤藤守編#5三人の盗難除けのおかげ

明治十八年の冬、難波の近藤藤守のもとへ、市内南区日本橋筋一丁目で傘屋を営んでいた竹林利八という人がお礼参りにやってきた。

「昨夜、私のところへ盗賊が入りまして、土蔵を破りましたが品物の置いてある二階へは上がらずに、雨傘の壊れたのを入れてありました所へ入り、雨傘の壊れたのを二、三本持ち出したばかりで、ほかに家の物は何一つ盗られずに逃げて行きました。誠に結構なおかげを頂いて有り難う存じます。なにとぞ神様へお礼を申し上げてくださいませ」

とお届けをして帰った。そのあと南区大宝寺町東之町に板車製造業を家業とする榊原小三郎という人がお参りにきて、

「昨夜、私のところへ盗賊が入りまして、表の雨戸を何か切れ物で手の入るほど大きく切り、そこから手を入れて錠を外したようですが、何一つ盗られず、誠に結構なおかげを頂きまして有難うございます。なにとぞ神様へお礼を…」

と無難のお礼に参り、そのあと南区難波新地五番丁の大工職の多幾円七という人が参ってきた。

「昨夜、私のところへ盗賊が入りまして、横手の小路から戸板をはずして入りましたが、おかげで何ひとつ盗られたものはございません。誠に有難うございました。…」

という具合に昨夜、盗賊に入られたが無難であったお礼が三件、立て続けてあった。

近藤藤守は、そのあとお広前に居合わせた人たちに、

「今日はこういう不思議なことがある。昨夜一晩のうちに、三軒へ盗賊がはいったが、いずれも何一つ盗られずに済んだというおかげがあった。どれも誠に結構なおかげであるが、この三人のうち、だれが一番大きいおかげをこうむったと思うか。」と問うた。やがて一人が、

「それは竹林さんが一番大きいおかげを受けられたように思います。なぜなら盗賊が土蔵の中へ入りながら、何一つとして持ち出さなかったのですから、これが一等で、その次が榊原さん、その次が多幾さんであろうと思います。」と言った。

藤守は「わしの考えでは多幾のが一番大きなおかげで、竹林のは一番小さなおかげであると思う。なぜなら、竹林は土蔵を破られて古傘ではあるが二、三本取られている。土蔵の修繕に十円なり二十円なりの金がいる。してみれば、十円二十円盗られたのも同様ではないか、多幾は板戸を外されたくらいで、釘の二、三本もあれば自分で繕える。多幾がもっとも大きいおかげを頂いたといえるであろう」といわれた。

続いて、「しかし、この三人よりも他に、最上等のおかげを受けている者がおる。それはお前たちぢゃ。お前たちは昨夜泥棒も入らず、何も取られず、心安らかに一夜を明かせたではないか。毎日毎晩、何事もなく心安らかに楽しく暮らさせて頂いているのが何よりのおかげではないか。この平常のおかげを真に有難しと思うてお礼を申し上げるようにすれば、何時でも無事のおかげをいただける」と教え諭すのであった。


その52.近藤藤守編#6金の字をなでると金がたまる

金光大神の道は、岡山の大谷から白神新一郎や近藤藤守によって大阪へと伝わり、取次により人がおかげを受けて神信心をする者も多くできた。俳優、芸妓につづきお茶屋の女将が多く、金光大神の道の評判が立った。しかし、信仰とは盛んになると同時にあちこちで迷信が生まれる。

近藤藤守が取次をおこなっていた難波の広前の入り口には、石柱が立っており字が掘ってあったが、いつからかこの金の字をなでるとお金が貯まると噂が立った。

藤守は、広前の敷地の入り口に立っている石柱の金の字が黒光りをして汚れいている様に気づき、キレイに掃除するも、翌日にはまた汚れるので、子供のいたずらに違いないと密かに監視をするのであった。

すると、子供のいたずらどころか、大人が入れ変わり立ち代わり来て、金の字をなでている。撫でた手で肩をさすったり、痛み所に当てたり、ガリっと掴んで懐に入れる者もいた。金の字が汚れる原因は、人の手垢と脂だったのである。

藤守は「このような迷信は悪い影響をあたえる」と広前に参りくる人々に話すと、その中にも、金の字を撫でた手で痛いところをさすったところ、病気が治ったといったおかげ話がたくさんあったという。


その53.畑徳三郎編体が動かなくなった神童

慶応三年(1867)、京都伏見に生まれた畑徳三郎は、生来、すぐれた知性に恵まれ、几帳面な性格もあいまって、みずから求めて勉学に励んだ。まわりの人から神童といわれるほどであり、将来は教育家か学者にでもなりたいと志していた。

ところが十五歳の時に腫れ物で苦しみ、翌年には気管支を患い肺病との診断を受け、さらにその翌年には慢性脊髄炎という難病をかさね、全身がしびれて病床にうち伏す身となった。くわえて、その三年のあいだに大黒柱の父を失い、つづいて姉、兄嫁が亡くなり、三年連続で葬儀が続いたのであった。

まわりの人からは、「金神の祟りだ」と噂をされ、母は人の勧められるままに、加持・祈祷を頼んだが徳三郎の病状は一向によくならない。

そんなとき、田畑五郎右衛門という人に、金光大神の道の教えや難波で取次をおこなう近藤藤守の話を聞く、その時に「気に入った点が三つあった」という。

一つは、金神の祟りをはじめとする方位方角の吉凶・日の吉凶を言わぬこと。二つに加持祈祷・まじないをしないこと。三つに食物の制限をする精進・物断ちをしないことであった。

これまで人に金神の祟りだと言われれば方角を気にしたり、加持祈祷をしてもらい、精進や物断ちをしてきたが、この道においては、それをするにおよばない。徳三郎は金光大神の道に興味をもち、一つ神信心をしようという気になった。

さっそく神棚を設けて、床のなかから拝むも、一向に病はよくならない。五郎右衛門からは三週間でおかげをいただくように言われたのだが、何の変わりもないので疑心が湧いた。

そのとき五郎右衛門がきて、「それはあなたの神信心が足らぬからだ。他のおかげを受ける人と同じ神を信じ、同じ教えを聞いてそれだけの差があるのは、神のおかげがないのではなくて、信心が足らぬのだ」といわれる。

徳三郎は「なるほど、もっともだ」と素直に聞き入れるも、その年の九月に入る頃に、病状は悪化し絶体絶命となった。そのとき、徳三郎は母親に難波の広前へ参ってくれと頼む。

「この道には、祈祷やまじないはないのであるから、参って拝んで来てくだされとは申しませぬ。その近藤藤守というお方がどんな教えを話してくださるか聞いて来てください」

この息子の願いを聞き入れて、母親は十里(40キロ)離れた二日はかかるであろう難波の広前まで参拝するのであった。

母親が大阪から帰ってくると、徳三郎は教えを聞きたいという一念から体が動かせた。実に二百四十七日ぶりに、寝返りができ、少しは這えたのである。

かくして、徳三郎の体はすこしずつ動くようになり、十月には五郎右衛門のもとへ、翌年には十八歳の正月には、難波の広前へお礼参拝をした。


その54.杉田政次郎編#1神へのご無礼で病がぶり返す

明治十一年、杉田政次郎はカネと結婚をし大阪高津三番町で金網・金物類の卸小売業を営む。

明治十五年正月十五日、長女キクが生まれた。妻カネは、産後の調子が悪く、はれ病からリュウマチ、痛風になり床にふしがちであった。政次郎は医者にみせ、薬を飲ませ、八方手を尽くしたが効果がない。

妻が大小便をするときは、政次郎の背中にすがらせて便所へ行くが、妻の足が畳のうえにすれると、足がちぎれるように痛みが走る。便所から寝間へ連れていくには二、三十分かかり、そのあいだ、子どもは寝間で泣きっぱなしであった。

乳飲み子のキクと二歳半の長男を面倒みながらの毎日であったので、商売も思うままにならず休業が続いた。カネの病気はしだいに重態となり、いつしか町の噂になった。

ある日、割来商を営む高田浅次郎が訪ねてきて、「難波土橋の西詰に、金神さまを拝んでいられる近藤藤守という方がおられるから、行ってお話をよく聞いて拝んでもらいなさい、願い事は何でもよく聞いてくれはります」と勧められる。

こうして明治十六年五月二十六日の朝、政次郎ははじめて難波の広前に参拝する。神前に向かって拝礼をしたが、あいにくその日は藤守は不在であり、夫人の梅子に願いごとを聞いてもらった。

「今、藤守は留守じゃから、このご神米(お米をお神酒であらったもの)をお供して帰り、新しいお社へ納めて一心にお頼みなさい。明日こられるから、また詳しく話を聞きにきなさい」と一包のご神米をいただいて帰った。

家に着き、ご神米を床の間の壁に貼って一心に妻の病の快癒を願った。途中、カネの病は治まるどころか手足がちぎれるように痛んだが、二人で祈願をこめて、供えた水を足に吹きかけ続けるのであった。

ようやく眠りに落ち、ふと目を覚ますと、昨日の痛みは遠のいて楽になっていた。政次郎は夜が明けるのを待ちかねて、難波の広前へ参り、そこで藤守と初対面をして、神前に向かって神へのお礼の祈念をした。

「何ともわからぬが、お前は先祖から百三十度のご無礼がある。今日から十四日のあいだ、日参をして神にお詫びをすれば、妻の病気は平癒する」

藤守より説諭を受けた政次郎はその指示通り、朝早く起きてにお参りして無礼を一心に詫びた。カネの病は一日経つごとにしだいに解放へ向かい、十四日目には台所に立って食事の準備をするほどに回復した。

政次郎は感激し、難波広前への案内をしてくれた高田浅次郎を訪ねて、改めて難波広前に礼参した。その帰り道、高田に「永い間の病人の看病で疲れたでしょう。一杯やって気晴らしに踊ろうではありませんか」と遊びの誘いを受ける。

家で待つ妻の身が気になりながらも、恩義のある人の誘いを断れず酒を飲んで遊ぶ。心楽しく酒を交わすうちに、ふと何やら胸さわぎがし「早く家に帰れ」の一言が心に浮かんだので、急いで帰ると妻がうなり声を上げて苦しんでいる。

「今頃なにをしていられましたか。今日の夕方五時頃から、また元のように手足は腫れ、胸が息苦しくなりました」政次郎はまことに申し訳なく思い、夜通し看病したが妻の痛みは止まらなかった。

夜明けを待って難波広前に参ってことのしだいを告げると、「お前は昨日、何か神様にお気ざわりをしたな」と大声で叱られ、ただただ「恐れ入りました」と詫び続ける。

神前に向かい拝礼をし藤守は改めて、「今日から二十日のあいだ、日参をして心をこめてお詫びをしなければ、家内の体は元には戻らぬ」と諭す。

政次郎は翌日から朝夕に参拝して一心にお詫びをし、二十四、五日目にカネの病は平癒した。


その55.杉田政次郎編#2隣人も気づかぬほどの軽いお産

妻の病気が快癒した杉田政次郎は、近藤藤守が取次をおこなう難波広前に参って話を聞くのを何よりの楽しみとしていた。

ある日、藤守より「金光大神のご理解(教え)に『この神に一心に信心すれば、産をする時は隣知らずの安産をさせる。妊娠のとき、腹帯をするな。心に一心の帯をしめて安産をせよ』とのみ教えがある」と教えられた。

政次郎は、安産のおかげを受けて人のよき手本になろうとの覚悟をもって神信心をすすめる中、妻カネが妊娠した。これは良い機会と思い「隣知らずの安産のおかげ」を目標として、一心に神に願った。

明治十七年二月のある日、自宅で神前に向かい朝の祈念をしていると、ふと「今日、妻が八時に安産するぞ」と心に浮かんだ。

朝食を済ませるとすぐに、妻カネに向かって、「おまえは湯を沸かせ。私はお産の場所をこしらえるから」というも、カネは「そんなことはありますまい。なんの催しもありません」と答えた。

政次郎は「なんの催しがなくても、神様が八時に産ますとおっしゃったのだから、間違いないから、疑わず湯をわかしなさい」という。

神前に灯明をともし、お産の準備をすませ、湯が沸くと同時にカネが産気づいたのでさっそく神前に向かう。政次郎は「金光大神、天地金乃神」と繰り返し唱え続ける。そのうちに八時になり、途端に破水して元気な女の子が生まれた。

へその緒の始末をし、産児を産湯につからせようと容易をしているところへ、向かいの小山ひなが、今朝はなぜ店が閉まっているのかとたずねてきた。

「おひなさん、喜んで下さい。ただいま家内が安産をしました。女の子です」
「産婆さんは来てないのですか」
「いや、産婆は私です」
ひなは驚きながら「それでは私がうぶ湯を」と手伝ってくれる。

夕刻、難波広前に参って藤守に安産の礼をのべると「大阪でよい安産のお手本になったなあ」と、自分のことのように喜んでくれた。この子どもの名はシナと名付けられた。


その56.杉田政次郎編#3一夜にして両眼が見えるようになる

妻の病気の平癒や隣知らずの安産のおかげを受けた杉田政次郎は、しだいに人助けをしたい欲が出るのであった。

あるとき、商いに出かけて得意先を回っていると、天王寺鳥居脇に「白子屋」というぜんざい屋の主人が眼病を患い、医者に通って治療を受けたが、その甲斐なく盲目になって落胆している話を聞いた。白子屋はふるくから馴染みあるお得意先でもあり、何とか助けたいとの想いで自宅を訪ねる。

政次郎は、天地の神の恵みの話を聞かせ、疑わずに一心に願えば大病でも助けてくださると伝える。これを聞いて喜んだ白子屋は、さっそく難波の広前に参って近藤藤守より話を聞き大いに感動した。

難波から政次郎が盲目の主人の手を引いて帰る途中、淀治という小料理屋で休憩をした。白子屋は、

「今日まで、堺の眼医者にかよって、薬を飲んで養生しましたが、ついには盲目となりました。杉田さんに導かれて難波のお広前で結構なお話を聞かせてもらい、わたしもこれで助けられた気がします。何かうまいものでも一杯飲ましてください」

といって杯を傾けたが、喜びのあまり飲み過ぎて、白子屋はとうとう酔いつぶれてしまった。人力車で自宅まで送り届け、そのままに布団を着せたが、夜明けまで眠り通した。

夜が明けて、目を覚ましあたりを見ると、昨日までの暗闇が嘘のように晴れ渡り、晴眼となっている。「ありがたい。一夜にして両眼が見えるようになった」。白子屋は政次郎と共に、お礼のしるしに鏡餅をもって難波広前へ参り、神前に供えた。

藤守は政次郎に、「おまえという人がお手引きしたればこそ、白子屋の主人の両眼が開いたのじゃから、このお鏡さんはお前さんに下げる」といって、神前に供えた鏡餅を下げ渡された。


その57.杉田政次郎編#4 脾疳、疥癬、乳がん、一家そろって大病に

明治十八年七月二十四日、大阪の近藤藤守のもとで神信心の手ほどきを受けた杉田政次郎は、京都の島原で広前を開き、多くの参拝者でにぎわった。

そのような中で家内中が病気におかされる出来事があった。先ず、二女のシナが脾疳(ひかん)にかかった。小児に多い慢性型の消化器障害で、全身やせ細り腹だけが極端にふくれあがり、食欲が増す症状が現れる。

「豆をくれ」といえば、一升くらい枕もとに置かないと承知せず、はちきれんばかりに膨れ上ったお腹でも、欲しがり食べ続ける姿は見るに堪えなかった。

次に、長女キク、長男恒次郎、政次郎が疥癬(かいせん)というダニの寄生によって生じる伝染病にかかる。皮膚疾患のなかでも最高度のかゆみを伴うという。キクは口もきかず、顔は青ざめ、唇は黒く、目玉だけがぎょろぎょろ動いた。次に妻カネは乳癌の症状が現れ、乳が昼夜を通して痛みつづけた。

それまで賑わっていた広前も静まりかえったようになっていたが、お参りにきた一人が「この暑さに、疥癬の膿、血は臭うございますから」といって風呂を沸かしてくれた。

これに入ると一時はよくなったが、キク、シナの症状はますます悪化し、いよいよの状態となった。政次郎は、「キクは物を食べたくなくて亡くなれば、楽なお国替え」、「シナは食べるだけ食べて国替えすれば、本望。神様のまにまにじゃ」と思い分けをした。

それから四、五日後、とつぜん妻カネの乳房に穴があき、器に一杯半もの膿血があふれ出て、一度に楽になる。続いてキク、恒次郎とつづき、ついには家内中すっかり全快した。

政次郎はその後、近藤藤守と大谷の広前に参り金光四神(二代金光大神)にお届けをする。

「金光様、このたびは家内中が長らく大病にかかりましたが、まことに結構なるおかげをこうむりました。家内中、一心におすがりをいたしまして、おかげを頂きました」と申し上げると、金光四神は即座に、

「いやいや、一心ではなかった」と返答する。

政次郎は意外に思い「金光様、一心でございます。好きな物を頂いて治りました」と押して答えた。

すると四神様は、「おまえ、風呂にもたれておったじゃろうがな」と言われ、これにはたいへん恐れいった。


その58.吉本新太郎編失われたはずの毛髪

明治八年生まれの吉本新太郎は、若くして奈良県五条で金光大神の道を広めようと奮闘していたが、年齢が若いのもあって心無い言葉もかけられた。

「あなたの頭に全くもって髪の毛が一本もございませんが、この神様がそんなに有り難い、あらたかな神様であるなら、神様のお徳で毛を増やさせて頂かれてはいかがでしょうか。『目にものを見せる』と言いますが、私たちもそうなれば信心をいたします」

新太郎は若年にして重病にかかり、おかげを受けたので「病気が治ったのであるから頭髪がなくてもよし」としていたが、この一件で「神のおかげを受けずにはおくものか」と決意を新たにした。

五条から奈良へ十五里の道を歩いて広前に参拝し、その帰りに神様から鯛をお下がりとしていただいく。

新太郎は、鯛のお頭を黒焼きにして神に一心に願い、頭にぬりつけた。すると不思議に頭に産毛が生えはじめ、やがてフサフサと波うつ黒髪となり肩に届くまで伸びた。

それを見たかつての詰め寄った者らは、年若い新太郎に「閣下」と尊称をおくり深く敬った。新太郎はおかげを頂いたしるしとして、晩年まで神の毛を切らずに伸ばすのであった。


その59.矢代幸次郎編#1きつね・たぬきの疑い心

矢代幸次郎はもとより神信心に熱心であり、夏冬とおして京都の清水で滝に打たれたり、伏見稲荷山で狐とともに行をした。

京都の土御門(安倍清明の家筋)と関係があったので、陰陽道にずいぶん精通しており、人を占って吉凶の鑑定をしたり、日柄や方位の良し悪しを言った。

明治十九年に幸次郎の妻なかの背中に「よう」という大きなおできができ、医者に「これは切開してもだめです。命は来年の五、六月頃まで持ちますまい」と告げられる。加えて、同年十二月には声が出なくなり、翌年元日に癪を起すようになり毎日正午まで苦しんだ。

そのときに中島という男に島原に、金神様をまつる杉田政次郎という人がいるから一度訪ねてみたらどうかと教えられる。

金神といえば、陰陽道では人間に祟り障りをする悪神として、長年忌み嫌われてきた神である、そんな神さまに願うなどとんでもない。しかしよくよく話を聞けば、金神は祟り神ではなく「天地の親神」という。「天地であれば大きな神」と神信心をする気が起こった。

幸次郎と妻なかは、これまでお世話になった稲荷神社に行き、「これから島原の金光大神の道を伝えるところへ参りますので、明日よりその神様にお願いいたしますからどうか神ながら取次お願いいたします」と願い届けた。

それから翌朝八時頃、母と妻の二人で島原の広前へ参拝にやったが、いつも朝のうちに起こる癪がこの日は起こらなかったという。

島原の広前でご神米(米をお神酒であらったもの)を頂いてきたので、幸次郎は机の上にご神米をお祀りし大祓をあげてご祈念をした。それから、ご神米を湯で沸かし妻なかに頂かせると「おいしいお湯でございます」と声が出て、それからすぐに病は全快した。

妻の病気が治ったのはありがたいが、まもなく幸次郎に疑いの心が起こった。ふつう、神仏に願い大願成就をさせてもらうには四十五日はかかる。それと比べるとあまりにもおかげが早すぎるのだ。「きつねやたぬきを使うのではないか、キツネだとすれば馬鹿を見るぞ」と思ったでのある。

その後、お礼の参拝に島原の広前へと参り、杉田政次郎に次のような教えを受ける。

「人に潮の満ち引きを止める力があったら、神のことも分かるであろう」

天地は人間の知恵や力ではかれる代物ではない。人の眼をもってして神は分からないのだ。方位・日柄・九星・八卦などを信じていた幸次郎にはこの言葉が胸にひびき、同時にきつね・たぬきの疑念も払われるのだった。


その60. 矢代幸次郎編#2心を治して願えば眼病も治る

北海道函館に田中由太郎という、その日稼ぎの大工職がいた。明治三十年四月ごろより、由太郎はソコヒという眼病にかかり、医者に全快の見込みはないと言い渡されてしまう。

眼が見えなければ働くのもままならず、一家が路頭に迷うほかないわけで、どうにか治したいと神仏に祈願をはじめる。東川町の成田不動尊に参詣し、一週間二週間と日を切って願ってもらうも病は治らなかった。

わずかな金銭を投げうって祈祷を頼むもその甲斐なく、かくする内に家計のほうも困難になる。眼病がいつ治るというあてなく心細く思ったのであろう、ついには妻も家出をしてしまった。腹が立てども盲目ではどうすることもできない。

そんな時分に、妻の兄奈久井弥太郎が青柳に金神さまの広前があるから、参ってはどうかと話をもちかけてきた。そうして明治三十年十一月二十三日、由太郎は矢代幸次郎の広前へお参りする。

「家出をした家内の居場所を教えてもらいたい」
「家内の居場所を知ってどうするつもりですか」問いに対して、幸次郎は問い返す。
「思う存分なぐってやります」と由太郎は正直に答える。

幸次郎はこくこくとこの道を教え、「あなたは家内を殴ると言われるがそのような心持では、神のおかげを頂けません。第一よく考えてみなさい。家内の不心得を起こさしたのも、あなたの眼が悪くなったからである。自分のこともお詫びをし、家内の不心得をもお詫びをして一心に願えば、全快のおかげをこうむれます」と伝える。

はじめは納得できなかった由太郎であったが、しだいに得心し、その通り願って帰るのであった。

翌朝、眼がちょっと良い気分がし、二日目には電線が見えるようになり、三日目にはほとんど目が見えるようになった。五日目には、芸者屋から漬物置き場を修繕してもらいたいと仕事がはいる。こうしておかげを受けて、由太郎の眼病は全快した。

あとになって家を出て行った妻が死んだとを聞き、供養をしてあげるのであった。


その61.岩崎平治良編願いが叶わず一度は神信心を捨てるも

岩崎平治良(いわさきへいじろう)は若いころから信心が厚く、従弟が大病を患ったときには全快を願って行をした。その行とは、自宅から二十四キロ離れた多賀神社へ一週間の三倍の二十一日間、病気平癒を祈って毎日お参りをし、加えて、道中は無言を貫く行である。

自分でも精一杯うち込んだつもりであったし、近所の人からも「平さんは、よく信心をなさるなあ」と感心されるほどであったが、その甲斐むなしく満願の二十一日は過ぎ、翌々日の二十三日目に従弟は死んでしまう。

平治良は「これだけ本気で信心をしたのに、神様に願いを聞いてもらえなかった。信心とは何んともいい加減なものである」と落胆し、以来、ぱったりと神信心をやめてしまった。

時は流れ明治二十年(1887)、今度は平治良自身が病気にかかり、家屋敷を抵当に入れて医者に診てもらったが「もう手の尽くしようがない」と見放されてしまう。これより先は神仏に頼るより他ないが、例の一件から願う気も起こらない。

そんなとき、天地金乃神へと信心をする妹が来て「若いときには、あれほど神信心が好きであったのに、どうして今は嫌いになられたのかしら。人は生きても死んでも天地を離れられず、天地の神のご厄介にならぬわけにはいかない。同じご厄介になるのなら、生きてご厄介になる方が本望ではないか。ぜひその気になってお母さんにご安心の出来るようにしてください」と説得した。

妹の言葉が心に留まった良平治は、布団で横になったまま神について考える。

「以前、私の参っていたお多賀さんはイザナギノミコト・イザナミノミコトの二神であって、人の形をおいでになる神様である。同じ天地の神と言うが、天地金乃神は、地の神様とお天道様とお月様であって人間ではない。たしかに生きても死にてもおかげを受けねばならぬ神である」

合点がいき神へと頼む心になったと伝えると、妻と妹はこれを喜んで、辻川猪次郎という人の広前へ代わって参拝してくれた。

猪次郎は「私には富士の山より高い罪があります。また海の底よりも深い罪があります。子供や年寄りは何も知りませぬ。今私が死んだら家はどうともなりませぬ。どうぞ子供や年寄りのためにお助けくださいませ」とお願いせよと教えられ、それを聞いた平治良はそのとおりに唱えて一心に願った。

すると五日目の七月三日の日には、布団の上に座れるようになる。平治良はおかげの兆しを嬉しく思い「神様のところへ連れて行ってくれ」と家族の者に頼み、たまたま居合わせた相撲取りに担いでもらいお参りをした。

広前へ着き、布団を敷いてもらいその上に座る。ありがたき心でお礼を申す平治良であったが、朝八時半から急に繰り返し血を吐きはじめ、午後の二時にやっと留まった。家族の者はこれを見て心配したが、平次良は気分が良くなり、その晩はぐっすりと眠れた。

その日を境に病気はどんどん快方へと向かい、七月二十一日には杖をついて一人でお参りできるようになった。それから平次良は毎日の参拝を欠かさず、時には一日に二度参り、ついに病気は全快したのであった。


その62.高阪松之助編#1人力車にひかれた子ども

明治十七年六月ごろ、杉田政次郎は大阪より金光大神の道を伝えるために、京都島原へ訪れていた。高阪松之助は、この頃に政次郎の噂を聞き、人に勧められもしたが疑念を抱いていた。しかし、次の一件でその疑念は消え去る。

松之助の近所に、西脇与八と妻とわという老夫婦が住んでいた。この人は口八丁手八丁の頑固ばあさんで、あまりの我がまま勝手に夫の与八も困り、同居していた長女と次男も手を焼いており、近所でも気の毒な家庭と噂されるほどである。

しかし、ある頃から、老婆は人に導かれて杉田政次郎の元へ参るようになり、人が変わったように改心した。夫や二人の子どもにこれまでの身勝手な行いを詫び、真心から気を配るようになって一家の和合となった。

これを間近で見た松之助は、「あのやっかいな老婆が教えを聞いて善人になったのであれば、まことに結構なみ教えである」と感心し、自らも政次郎をたずねて教えを乞うのであった。

それから日夜、参拝しみ教えを受けて神信心をすすめ、「天地へご無礼のお詫びのため、一つでもよい行いをさせてもらおう」と決意を固めるのであった。

ある日、商売の帰り道のこと。松之助の目の前で、見知らぬ子どもが二人乗りの人力車にはねられる。子どもは倒れ、人を乗せた人力車がその子供の上をかけって行く。

車輪に右足の太ももを轢かれ、子どもは大声をあげたが、車は止まりもせずにそのまま逃げ去った。人力車といえども重さは二百キロはあるだろう。子どもの足には車輪の跡がくっきりとついていた。

松之助は急いで子供を抱きかかえた。子供はわっと泣き声を上げ、それを聞いて両親も家から飛び出てきた。とにかく、すぐに子供を家の中へと運んだ。

松之助は、慌てふためく両親をなだめて「自分は通りがかりの神信心をいたす者です。今より痛みが止まるようにお願いするから、湯呑茶碗に水をくんできてくれ」と頼んだ。

松之助は水を口にふくみ一心に神を願い、車にひかれた足に吹きかけてしばし祈念をする。すると、だんだんと痛みが止まり、子どもは泣き止んだ。「立ってみなされ」と言えば子どもは立ち、「歩きなされ」と言えば少しずつ歩行した。

子供が「ここがまだ少し痛む」と言ったので、水を吹きかけてお願い申し、三分ほどたつと痛みも止まり、はじめて子どもが笑う。両親や近所の人はその光景を見て、口をそろえて不思議だと言った。

両親は逃げて行った車夫を訴えて、警察に取り調べをしてもらうと話していたが、松之助は「子どもの足が立たなくなったのならともかく、神様のおかげで早速全快いたし、差支えないのでどうか許してやりなされ。人を助けてやればお宅の難も逃れる道理。このままに済まして置きなされ」となだめた。

両親より「後ほど改めてお礼に参ります。あなたのお名前と町所をお聞かせください」とたずねるが、松之助は陰徳を積むため自身の名前は明かさずに、その場を去ろうとする。

「しかし、それではあんまりのこと、是非、お名前を」と引き留めるので、松之助は「私が助けたのではなく、天地の神が子どもの難儀を助けたのである。よって気が済まないのであれば、島原に天地金乃神をお祀りする広前があるゆえ、そこにお礼をいたされよ」と言い残してその場を立ち去るのであった。

高阪松之助は神信心をすすめ取次に専念するようになり、滋賀の大津で広前を開く。


その63.高阪松之助編#2ならず者が味方になる

明治二十年四月十日、大津で広前を開き、取次を行う高阪松之助は大谷の広前へお参りする。そのとき、金光四神(二代金光大神)より、以下の教えが下がった。

「堪忍辛抱せねばならぬ。金光大神に打ち向こうて来る者がいたがのう。色々な暴言を言われ、背中に小便をかけられることもあったが、それでも何も仰せにならなかった。そこに居合わせた人が『金光様、かような乱暴をする者は、どうにかされていかがでしょうか』と申せば、金光様はお笑いになり『わしは日夜神様へ氏子の願いで苦労をかけているから、ちょうど水垢離でもしようかと思うていた。神様があたたかい湯にて修行をさせて下されたのじゃ。』と仰せられた」

松之助は、実にありがたく思いお礼を申し上げて、大津へと帰国した。

その秋のこと。大津市寺内に十人ばかりの子分を従える、長辰というゴロツキがいた。その人らは高観音山へ参り、何かの祝い事で大酒をして、その帰りに高阪松之助の広前へまいってきた。

長辰の親分は「お神酒を頂戴したいがよいか」とたずねたので、松之助は快諾した。

しかし、何か気にくわなかったのか長辰は「これはご神酒ではあるまい、水であろう」と難癖をつけ始め、茶碗を壺の端に当てて欠かせる。つづいて、

「おいお前はここの先生か、失礼極まる奴じゃ。お神酒を人にいただかせるに、かわらけでするが当たり前、欠け茶碗で頂かすとは何事じゃ。軽蔑するにも程がある。承知ならぬ。」

と言い放ち、茶碗を投げつけて障子を蹴り外し、襖を破く。火鉢を蹴散らし火は散乱し、灰が煙立つ中に松之助の胸倉をつかみ火鉢の中へ顔を突っ込もうとする。

松之助はとっさに、「今年四月に大谷へ参ったとき、二代金光様に頂いたみ教えは、まったく今日の出来事を事前に知らせてくださったのだ」と悟り、早々とご神前へかけこみ、一心不乱にお詫びを申した。

すると表より警察官二名がやってきて、「先ほどより本官は確かに見とどけた。家宅侵入罪現行犯なるによって身柄を拘束する」と長辰親分一味に申し渡す。

普通であればこれにて目出度しであるが、松之助は長辰一味の弁解をする。

「私は当広前の主でござります。この人は本日、高観音山にて大酒をいたし、見かねて連れて帰ろうとしたところ、足元がふらつき、障子と共に倒れ、襖は破れ、火鉢につまづいてひっくり返したのです。酒の上の過ちにて決して悪気はありません。今日のところは許してやってください」

と申し上げると、警察は、

「この者どもは、これまでに度々悪さいたす者ゆえ拘引すべきものなれ、あなたが保証に立ち弁解するのであれば、今日のところは許します」といい、長辰一味に「今日は当主の弁解にて許す。以後つつしむべし」と告げて、みなみな帰宅する。

その後、長辰一味は集まり「あの当主は堪忍の強き男である。あれだけの仕向けに立腹もせず、警察へ弁解してわれわれを助けてくれた。かような人に敵対するのは止めにしよう」と相談のうえ、二、三名が大津の広前へ参り丁寧に詫びた。

「この間は、不作法いたし。しかるに御立腹もなく、かえって我々をお助け下され、申し訳ないと思い本日お詫びに参りました。今後はあなたの味方となり、乱暴致すものや、打ち向かってくる者があれば、われわれの仲間へお知らせください。都合よろしきように取り計らいますから、この間の件はお許しください」

こうして毒薬が変じて薬となった。松之助はまったくみ教えの賜物と思い、有難くお礼申すのであった。


その64.高阪松之助編#3トンネルに閉じ込められた63名

明治二十三年の大津三井寺下疏水隧道崩壊の大事件の話。

山口県久賀村に住む福田亀吉は山口で金光大神の神信心をしており、福田組という請負を業としていた。このたび大津の第一疏水隧道工事を請け負い、工夫二百人をつれて大津へ参る。

福田組には工夫長の丑五郎をはじめ、神信心する人が多数おり、福田親方を筆頭に日々、大津の高阪松之助の広前へ参拝していた。

ある日、丑五郎をはじめ六五名の工夫が夕方よりトンネル内にて掘取作業をしていた。夜十時ごろ、大音とともに土砂崩れが起こり、入り口から十五、六間(おおよそ27m)を塞ぎ、六十三名が閉じ込められてしまう。

福田は早々と役所へ届け、京都府へも電信を届け、夜中十二時頃に大津の広前へ参ってお届けをした。

「工夫六十三名が土砂崩れによって、トンネル内に閉じ込められました。工夫に命じて外から土砂を掘り取りいたしておりますが、なにぶん土砂ゆえ、何度掘り取るも土砂がはげしく崩れ落ち、手の付けようがありません。なにとぞお助けをお願いしてください」

福田の顔色は青ざめていた。松之助はさっそく神へ一心にお願いをし、その後、福田に伝える。

「ただいまから、工事を止め。朝まで工夫を休ませ、神様へ皆々一心にお願いすれば、崩れを止ていただける。その間に細き穴をあけて、十間ほど掘り取り、太い青竹の中の節を抜いて、穴より突っ込む。中の様子を聞き、煮卵など堅くて丸い物を竹中より差し入れよ。外側より土砂を昼夜かわるがわる、お願いしつつ掘り取りすれば、だんだん崩れはすくなくなり、穴を通せる。真一心となれば、神様に通じておかげを受けられる。」

と諭した。福田は涙ながらお礼を申し上げ、工事現場へ駆けつけ事のしだいを告げる。

一同は一心に金神さまへと念じて、明くる朝より、土砂を掘ったところ土砂は崩れ落ちずに掘り進めた。青竹をつぎ合わせ、お願いしつつ穴へと突っ込み、ついに中の土砂を貫いてトンネル内に通じた。

さっそく竹の中から食べ物をおくり、中の様子を聞き取る。

「六十三名の内十人あまりは気力が尽き、寒さのため倒れている。食物や水はなし。二日二夜のあいだ飲まず食わず。中の者は一生懸命に金光様と念じて祈りております。一日も早く土砂の堀り取りを願う」

しかし、その日の夜から再び土砂が崩れ落ち、掘り出す見込みは立たず、さすがの工夫たちも疲れがでてきた。中からは、

「皆、薄着のまま三昼夜もこらえておるが、もう限界だ。中からも堀りだしているが、土砂が落ちてくる。どうか六十三名を助けてくだされ。早くしなければ皆々死ぬよりほかなし。頼む頼む」

福田は居ても立ってもおられず、広前へ涙ながらに参った。松之助は、

「福田さん。心配ではおかげにならぬ。心をしずめて、今一層力を合わせ、今晩中におかげをこうむれるように願いなされ。こちらもお願いしますから、中の人々へもお伝えなされ」

トンネルの中では、カンテラの油も底をつきはじめ、倒れる工夫も増えている。中にいた丑五郎は、大地へ座り心をしずめて神に向かい「六十三名の者、寒さと空腹とに耐えられず、つぎつぎに倒れております。私の命を犠牲にしても、他の六十二名の者をお助けください。穴の通るまで命が切れませぬようお助けください」と願った。

丑五郎はそのまま倒れ、夢か現実か分からぬが誰かが「内より左側を掘るべし。途中にある板を切りとれ。外からも掘っているが、途中の厚板にさしかかってそのままになっておる。中の板を切り取り行けば穴が通るそれより一人ずつ出るべし」と教えた。

丑五郎はハッわれに帰り、「ただいま、自分に教えたのは誰か」とたずねるが、皆「知らぬ」と答える。

「これは神様のお知らせに違いない」

丑五郎の指示で皆はお知らせの通り左を堀り始め、途中まで掘ると突き当たるものがあった。押せども引けども動かず、「これこそ厚板。これを切り取るべし」とノコギリにて切りとり、少し先にへと掘り進めれば火の明かりが見えた。

外から堀り進めていた穴と、内から掘り進めていた穴とが、きっちりと合致したのである。こうして一人ずつ穴から外へ出し、はじめに出た者が叫んで助けを呼ぶ。

外より紐を差し入れ、それを手繰って六十二名がヨロヨロしながら外へ出て、最後に丑五郎が出てきた。

「自分は一命を投げうって神へと願い、六十二名の工夫を助けていただいた。自分は残って死ぬつもりでいたが、ふたたび、『早く出よ』と知らせをいただき、ただ今出てきた」

その夜は、病人の介抱やけがの手当て行い、翌日には無事にみな回復した。福田の喜びはこの上もなく、六十三名はもとより、係の人々、福田の家族などが揃って大津の広前へお礼参拝をして、大きな鯛を二匹と酒樽を供えるのであった。


その65.佐田イヨ編持病の頭痛の取り払い

佐田イヨは、安政六年十月九日に福岡秋月で父半助、母フサのあいだに生まれる。

父半助は幼いときに黒田長元公に助けられ、秋月藩の藩主の側で仕えていたが、明治九年に秋月の乱を機に福岡の千代町へと移り商売をはじめ、イヨは妹と共に双子織りで家計を支えていた。

父半助は商売繁盛の神、妙見神社でお稲荷様を信仰しながら平穏な日々をおくるも、ある時期からイヨが激しい頭痛を起こすようになる。ひとたび頭痛がはじまれば何日も床に伏せてしまう有様で、その日数はしだいに長くなり、頻度もだんだんと増えた。

寝込む娘を心を傷めた母フサは、方々の神仏に病気平癒を願ったが一向に願いは叶わず、ついには五年のあいだ床に伏せたままとなった。

転機となったのが、大阪から九州へと金光大神の道を伝えにきた高阪松之助一行との出会いである。

松之助は大阪の近藤藤守より「九州には桂松平氏がお道を伝えているが、一人にては手も回らず。まずは、山口に行き山川治三郎の元をたずね、続いて九州方面にて神の道を開けよ」との命を受け、山川治三郎・二宮光三・増田勇吉と合流し四人で博多に来訪した。

はじめは宿屋を仮の広前としたが、二、三日で二十名ほどが拝むようになったので、正式な広前になる借家を探していたところ、ひょんなことから佐田家の表座敷で、道を伝えることになったのである。

こうして六畳間の表座敷に金神様をお祀りする神具が安置され、神前の右側には小さな机が置かれた。そこに二宮光三・ 山川治三郎が座って人の願いを取次を行い、次々と霊験が現れ、しだいに広前は参拝者でにぎわうようになった。

ある日、持病の頭痛に苦しむイヨの姿を見た二宮光三は、病気平癒の願いを取次ぎ「五日の日を切って、おかげを頂きなさい」と告げる。参拝者が次々と助かる様を見ていたイヨは、その言葉を信じて「五日でおかげが受けられますように」と天地金乃神へと一心に願った。

すると、五日といわず三日でおかげを受けて、それを境に五年ものあいだ続いていた持病の頭痛は、根っこから平癒する。イヨの病気平癒をはじめ、次々と人が助かるところを間近で見ていた佐田家一同は、その霊験におどろき、一家あげて天地金乃神を拝むようになった。

明治三十八年二月のこと。イヨが大谷へ参ったときに、宿屋で高橋富枝という老婆に出会う。
「お若い方、あなたはどのような用でここへ参ってこられたのですか?」
「はい、私は取次者にならせてもらいたいと思い参りました。」
「それなら、私が金光大神より教えて頂いたみ教えを、これからあなたにお伝えするからよく聞きなさい。私は、金光大神から『神様と阿呆の二人連れで行きなさい』と教えてもらいました。是非あなたもその通りにしなさい」

佐田イヨは、この言葉を一生の心の守りとして神信心をすすめ、博多で取次をするようになり、後に福岡箱崎で広前をひらき人を助けるのであった。


その66.安部利見編27度の大吐血

広島県高田郡向原町のある寺に生まれた安部利見は、ボート、ラグビー、柔道とありとあらゆるスポーツに長ける自他ともに認める頑丈者だった。しかし、高知高等学校に在学中の昭和二年五月ごろ、土砂降りの雨の中で、ボートに興じたところ肺結核を発病する。

結核は当時、不治の病とされ、一瞬のうちに谷底へ突き落されたような心地がし、一度は鞆の浦で身を投げようとしたが、母の住む尾道で療養することになった。

利見の母は金光大神の道を信仰しており利見に勧めたが、マルクスの唯物論に影響されて無神論者であった利見は低級なものとはねのけていた。

そうこうしているうちに結核の病勢はどんどん進み、翌年にはついに左の肺全てと右の肺七分、左の肺にはおおきな空洞ができて、医者から死を宣告をされる。

まもなく利見は咳と同時に血を吐く。医者を呼んでパントポンを打ってもらう。翌日二度目の喀血(かっけつ)が起こり、再びパントポンを打った。翌々日の三度目の喀血では、頼みの綱のパントポンの止血注射も聞かず喀血をくりかえす。

死が脳裏に浮かんだ利見は寝床の中、わらをもすがる想いで金光大神へと手を合わせた。すると喀血がぴたっと止まる。利見はありがたくなり涙を流して喜んだ。しかし、二、三時間も立つと「喀血が止まったのは薬が効いたのではないかしら」と疑念がわいた。

すると四度目の大喀血がおこる、注射をするが止まらぬ、神に願えば止まる、ありがた涙をする、疑いの心がわく。またも5度目の大喀血が起こる、 注射をするが止まらぬ、神に願えば止まる、ありがた涙をする、疑いの心がわく。

結局、三週間のあいだに二十七回も喀血をくり返し、そのたびに神に願った。ついには頑固一徹の疑い深い利見も「神は目には見えないけれど、実際におられて、自分におかげをくださっている」と悟った。

それから約一年のあいだ金光大神の道の広前へお参りして全快のおかげをこうむる。昭和四年、安部利見が二十三歳の頃であった。


終わりに

筆者は佐田イヨ氏のひ孫にあたるが、金光大神の道が人から人へと伝わり、代を重ねてただいまの私が神信心をさせてもらっていると思うと何とも感慨深い。

わたしの家系は代々みな神のおかげを受けてきた。曾祖母は息子が兵役から無事に帰ってくるように毎日大祓詞を五十巻を捧げて願い、祖父は台湾中部での高砂族の鎮圧、日中戦争での匪賊討伐、ラバウルでの飢餓とマラリアなど、幾多の死線を乗り越えて生還。

祖母は卵巣がんにかかり、九州大学病院で医師より手の施しようがないと告げられるも、二週間後、病院へ行きレントゲンを撮るとこぶし大の卵巣癌がひとりでに消え去るというおかげを頂く。祖父は百歳、祖母は九十六歳と天命をまっとうしお国替えとなる。

父は、大腸がんのステージⅣとなり五年後の生存率は20%を下回ると予想されたが、治療から六年経った現在、転移した癌はなくなりご健在である。母は、第一子を身ごもった妊娠六ヵ月のときに盲腸炎と診断され、医師にすぐに手術が必要、母体をとるか、お腹の子の命をとるかの選択を迫られるも、神にすがり手術をせずに平癒した。

筆者はというと、幼少のときより月にニ、三度おこる片頭痛に悩まされていたが持病の取り払いを神へ願い、それを境に頭痛・肩こり知らずとなる。また、妻と共に安産を願い、初子は三時間、次の子は一時間半で出産を終え、看護師さんからは「お産の見本」とお褒めの言葉を頂くおかげを受けた。これらはほんの一例であるが、このようにして代々、おかげを受けている。

神仏を本気で拝む人がずいぶん少なくなった現代であるが、天地金乃神へ一心を立てて願えばおかげが受けられる。人の世はここ百年あまりで大きく変われども、天地は今も昔も、これから先も変わりないのであるから。


参考文献

金光教本部教庁(昭和五十八年)『金光教教典』金光教本部教庁
金光教本部教庁(平成六年)『金光教教典人物誌』金光教本部教庁
金光教本部教庁(平成十三年)『金光教教典用語辞典』金光教本部教庁
佐藤昇(昭和五十八年)『先覚二十師』財団法人金光教徒社
金光真整(平成二十年)『金光四神さまの教えに生きた先覚』金光教若葉刊行
行徳清人(平成三年)『福岡ものがたり』金光教福岡教会
金光教田ノ口教会(昭和六十三年)『初代教会長難波幸姫』
金光教靭教会(平成十七年)『靭布教百年記念誌』

高阪勇雄(昭和五十年)『修行物語控』金光教大津教会
金光教九蟠教会(昭和五十年)『和賀心』角南美知江
金光教阿知教会(昭和四十八年)『阿知の祈り』
佐藤満雄(1999)『大願成就』佐藤満雄
佐藤金造(明治四十二年)『直信片岡次郎四郎師』高橋常四郎
金光教本部教庁(昭和二十八年)『金光大神』金光教本部教庁
重住楽太(大正十五年)『桂・唐樋両先生おもかげ』能勢健治
(昭和五十五年)『唐樋常蔵と山口県東部布教』金光教由宇教会
金光教川之江教会同窓会(昭和六十一年)『川之江教会初代高橋常造師』高橋タマノ
西城榮(昭和三十二年)『西城種吉先生』金光教下関教会
藤井潔(平成十一年)『北国屋大明神のおもかげ』
(1979)『大阪布教百年』大阪布教百年編集スタッフ
金光和道,高橋一邦(平成三年)『桂松平伝』金光教小倉教会
矢代礼喜(昭和四十九年)『我が師の信心』初代函館教会長五〇祭奉仕会

佐藤光俊(昭和六十年)『杉田政次郎伝』杉田政次郎先生伝記編纂
水島道雄(平成十七年)『天地金乃神』金光教大阪府連盟(大阪毎日新聞連載記事の転載)
浅井光雄(昭和三十三年)『松永金子大明神』金光教松永教会
近藤不二道(昭和五十六年)『史伝近藤藤守』金光教難波教会
青木茂(昭和三十年)『笠岡金光大神改訂版』金光教笠教会
高橋澤野(昭和二十六年)『金照明神のみかげ』金光教六条院教会
能勢典佑(昭和九年)『高橋富枝自叙録』能勢健治
(平成二十四年)『天地金乃神と申すことは-金光教箱崎教会百年のあゆみ-』金光教箱崎
吉田一,岡成敏正(平成八年)『道の礎』開教百年祭記念誌金光教上関教会
小松俊治(昭和63年)『ごじょう』布教九十年特集号,金光教五条教会
安部孝次郎(平成十一年)『安部利見感話第一集』
(昭和四十八年)『瀬戸廉蔵先生』金光教入田教会

\ SHARE /

CONTENTS


記事が見つかりませんでした。

記事が見つかりませんでした。

目次